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実は日本発祥 

8年前、中国の河北省天津に出張した。週末を挟んだスケジュールであったので日曜日は完全なオフ。朝食はホテルで済ませ、昼食は冒険がてら街へ出かけて、いい店でも見つけようと考えた。繁華街に入った。中華料理に絞込み、美味そうな店は無いかと辺りを見回すとすべて中華料理屋。あったりめえだ!中国なんだから!!綺麗そうな店があったのでとりあえず入った。「まずはビールに焼き餃子」とメニューを探すと、バドワイザーと青島ビールはあったが、焼き餃子は無く水餃子しかなかった。仕方なし水餃子にした。

中国では水餃子が主流。生地がモチモチして旨かった。焼き餃子が主流なのは日本だけ。せっかく天津に来たのだから〆は天津名物「天津丼」にしようとメニューを探した。どこを見ても無い。あったりめえだ!天津丼は日本発祥なんだから!!仕方なくラーメンを注文。薄い鶏がらスープにウドンのような白い麺が入っており、旨いとは決して言えるものではなかった。とっても残念。会計を済ませ店を出ようとしたら、大きなビニール袋を抱えた納入業者とすれ違った。よく見るとビニールの中には冷凍餃子がぎっしりと詰まっているではないか。

中国は人件費が安いので餃子は店の手作りであると思い込んでいたが、それも裏切られた。頭に来た私は翌日の昼食時、通訳の中国人女性に「中華式回転テーブルは横浜発祥だ」と教えてやった。するとその女性は猛反発。日本発祥の筈などあるわけないと大声で言い返してきた。ネットで調べろと言ったところ、翌日、彼女は謝ってきた。ついでに、露店で売っている天津甘栗も天津にはない。日本の天津甘栗は天津港から日本へ輸出される栗のことで、産地は天津に近い唐山市。1976年、約25万人が亡くなった唐山大地震は有名。

回転テーブルと同じようなことは韓国でもあった。焼肉の無煙ロースターは日本発祥であると言ったところ、これにも猛反発。妄言だとひどく怒っていた。翌日謝ってくるかと思いきや、そこは誇り高き民族、決して謝らない。戻って中国、1949年に中国共産党が建国した「中華人民共和国」。この国名を見た毛沢東は「人民」も「共和」も日本で作られた外来漢字ではないかと嘆いた。日本は昔から他国の文化を完全消化し独自のものを作り上げるのがとても巧い。以来、中国の友人には、回転テーブルの話をする前、必ずこの毛沢東が嘆いた話をすることにしている。韓国の友人には、無煙ロースターが日本発祥と決して言ってはいけないことも学習した。
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唐僧 鑑真和尚 

 つい先日、11月になったと思いきや、今週末で既に今月の半分が終わってしまう。なんともタイム・フライズ・ライク・アン・アロー、タイム・アンド・タイド・ウェイト・フォー・ノーマンである。先日、酒を飲みながらアカデミックにも幼稚且いやらしい英語談義に花を咲かせていた。すると突然、真面目な友人が:「立方体は英語でなんて言う?」 私:「キューブ」 友人:「じゃあ、直方体は?」 一同:「シ~ン」 友人(偉そうに):「a rectangular parallelepiped」 

 私も含め英語の勉強を怠ってきたオヤジ一同は「そんな英語、聞いたことも無い!」と切り捨てた。ま、厄介な英語ではあるが、その単語を分解すれば意外と分かりやすい。「長方形の辺が平行のパイプ状のもの」だ。欧米人はとても合理的である反面、非合理的でもあるなぁ~と感じる。立方体は簡潔に「キューブ」なのに、直方体の英訳はこんなにも長く煩わしいものになっている。私なら「ロング・キューブ」とでもしておくところなのだが・・・・・・。

 唐僧鑑真が如宝と共に数回の苦難の末、来日し唐律招提=唐招提寺を建立するドラマを録画したものを見た。天平時代後期の日本の歴史を見事に捉えたとてもいいドラマであった。女帝であった孝謙天皇が重祚(ちょうそ=一度退位した皇帝が再び天皇に即位すること)し、称徳天皇となった経緯や、道鏡との関係、藤原仲麻呂が起こした奈良時代最大の乱などを織り交ぜ、時代の流れに沿い老若男女の視聴者へ分かり易い構成となっていた。

 こういうドラマこそ、中高生向け歴史教育の教材にすべきであると考える。鑑真から空海へ繋がる仏教の歴史や、歴代天皇125代の内の第46代・孝謙天皇から第50代・桓武天皇までの日本史、平安遷都の必要性がドラマを見るだけで分かってしまう。きっと先生の授業より分かり易く面白い筈だ。学童保育ではそのような時間もあるのかもしれないが、このようなコンテンツを充実させることで、その放映中の約2時間、児童を退屈させることはきっとない。

 ま、つらつらと分かったような事を高慢にも書いてしまった。今日、書きたかった事は上記ではない。鑑真出身の中国・揚州の大明寺に行った事があることを実は自慢したかった。揚州へ行った最後の年はたしか2003年の冬。上海に事務所を構えるビジネス・パートナーは揚州出身。前職でも頻繁に揚州へは出張をしており、江沢民も揚州出身である。彼が総書記になってから市庁舎は急に建て替えられとても綺麗になった。金華ハムを使った揚州チャーハンも滅茶苦茶旨い。

 飯は旨く、気候も良く、とっても良い都市である。駅前通りのケンタッキーフライドチキン(肯徳基)もかなり昔からある。その最後の年、既に私は前職からの独立をしており、自分の仕事だけであったので余裕があった。大明寺の九重の塔は、過去数回の出張で移動中頻繁に見ているのだが一度も行った事はない。鑑真ゆかりの大明寺へ行きたいと話すとパートナーはすぐ彼の弟に電話をした。彼の弟は揚州で不動産と観光を営む大きな会社の社長だ。

 寺にはかなりの寄付もしており、大明寺にとってはVIPとのこと。ま、こんな話が大ボラであることは中国では頻繁である。が、行ってみなければ分からない。午前中の仕事もそこそこに切り上げ、大明寺へと向かった。それも時速130kmで。仏になって寺に行くのは嫌だ。そこの一番偉い住職と昼食も一緒との事。どこまでが本当なのか全く見当も付かない。弟は現地で待っているらしい。寺に到着し、若い僧侶と弟さんの案内でお寺の隅々まで見学した。

 そして昼食。大明寺には大きな食堂があり、何個も個室がある。あたりまえに精進料理なのだが、今までの精進料理の中では一番旨かった。あったりまえだ!歴史があるのだから。少し経つと住職が現れた。大ボラではなかった。が、謝らない。彼の大ボラは何度も経験している。ここぞと住職と握手し記念撮影をした。その食事中の話では、その当時、寺では併設する大学を建設中であるとのこと。パートナーは、元人民解放軍の諜報部門で日本語を専門としており、日本語ペラペラ、それも煩いくらいに巧い。

 彼は住職に対し、日本にゆかりの深い鑑真を売りとした大学であるのならば、その大学に日本語学科を創設し、自分を教授に迎えろと売り込んでいた。やることにそつがない。したたかな奴だ。それらの記憶を呼び起こしたのは、先のドラマであった。ドラマ中、大明寺の中国ロケが織り込まれていて、なんと一緒に食事をした住職が出演していたのであった。これはブログで自慢するしかない!と思った私だ。住職との記念ショット、交換した名刺の写真をご覧あれ!

頂戴した住職の名刺 両面フルカラー
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中国内のあらゆる役職に就いている 右側がその役職の数々
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住職と私 危険な顔はあえて隠した
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と、自慢したがりな私なのであった。頂いた名刺は今でも常に名刺入れに入れお守りとして持っている。

今年初の上海出張 

 先週、客同行で中国出張へ行った。(♪無錫旅情より)上海、蘇州と汽車に乗り 太湖のほとり 無錫の町のその隣、常州工場の視察だ。中国語で汽車は自動車、行きは自動車での移動。途中、太湖のほとりで昼食を取った。中国語と英語だけではきっと寂しいであろうと私の現地パートナーが気を利かせ、日本語学校に通っている彼の友人の娘を同行させた。中国出張初めての客の一人が、日本語の「注意」という語意にあたる「小心」を英語で「Small Heart」と訳し、「小さい心の人はきっと注意なんか出来ないよ!」と、その娘に冗談まじりに食って掛かった。すると、その娘はこう切り替えした。「じゃあ、日本語で有難うは、難が有るの?」と。「そんじゃあ、おあいこだ~」と客。

 おあいこの意味が分からず、彼女は電子辞書を取り出し調べた。どうも辞書には無いらしい。「アイコで調べたら」ともう一人の客。彼女はすぐに調べ、勝敗がつかない状態であることと理解した。「納豆は豆が箱に納まる、豆腐は豆が腐っている、と漢字で書く、これって逆じゃない」と客。更に「麻婆豆腐は本来、麻婆納豆と漢字で書くのが正しいんじゃない?」。 車中、こんな会話が延々と続き、気付けば目的地の常州に到着していた。宿泊するホテルへ行くと昨年までカウンター上に堂々と飾られていた5ツ星のプレートが無い。そういえば、昨日宿泊した上海ホテルの星のプレートも無かったような気がした。確かに、今までの中国ホテルは星付けランクのインフレ感はあったが。

 翌日、仕事も無事終わり、常州から上海へ戻る交通手段を車から電車に切り替えた。あいにくの雨で、上海エリアの大動脈・上海―南京間の高速道路ではきっと事故が多発し必ず渋滞に巻き込まれると考えたからだ。事故渋滞で常州―上海間の約200kmに6時間要したこともある。雨で我々が事故に遭遇する可能性も低くはない。この路線にはなんと、日本の東北地方を走る同系の新幹線「和階号」が走っている。中国政府は国内開発と発表しているが、実は日本製だ。指定席で61元(約900円)、上海までの所要時間は約1時間10分。2時7分発なので3時15分には上海についてしまう。中国内では、最も早く安全、そして最も快適な交通手段であろう。

 その車両のどこかに生産したメーカー、川崎重工のプレートがないかと探したが無かった。川重は日本の最先端技術を輸出したので一部では国賊企業との声もある。我々はその恩恵に授かってしまった以上、何も言えない。上海到着後、帰国を明日に控えた最後の夕方から観光に転じた。ホテルからすぐの地下鉄に乗り、空調と書かれたバスに乗り、テレビ塔や古い上海の街や上海料理を満喫した。初日には空港からリニアモーターカーに乗った。中国一の大都会上海のすべての乗り物を制覇したと言える?のではないか。仕事もスケジュール通り順調であったので、最後は日本人向けのクラブで打ち上げと称しドンチャン騒ぎ。そして午前1時にお開き。

 その後、上海で日本式ラーメンの金賞を受賞した「福ちゃん」で〆のラーメン。最終日なので疲れてはいたが、皆と打ち解けとても楽しい夜になった。なにしろ客は三十歳代の若者達。寝起きは悪いが夜と酒は滅法強い。客2社共に外資系、聞くと海外滞在も長く、当然英会話にも精通している。英文e-mailの書き方の極意も車中で教わった。若者に教わることが多いなぁ。私が若かりし頃、出張時にアテンドする客はすべて年上であったが、最近はすべて年下だ。それも一回り以上も年下。今回もそれだ。ま、それぞれの良さ、利益が合致し発注になり、会社同士仕事になってる訳だから、年配のオヤジだが私のいいところも少しはあるんじゃないか、と思うようにしている。やっぱ、無いか。

中国の旧正月 

 近頃、とても寒い。二十四節気の大寒は1月20日。寒いわけだ。中国は来週月曜日から旧暦の正月に入る。中国の工場は今週20日位から正月休みに入っている。見積もりを取ろうにも、スケジュールを聞こうにも、休みじゃあ、正確なものを作成できるはずもない。だが、その作成に追われる毎日。他社も裏が取れないので、この時期とばかり、私に電話をかけてくる客は多い。これらを、いかにも現地で裏を取ったかのように書くことも、ある程度は時間はかかる。客が、こう書けばきっと納得するであろうものを提出する。私はこの作業で時間を拘束される。客はこの時期、一時しのぎに私を使い、旧正月が明ければ、きっと他の会社に発注する。それらに要した時間を計算し、代金を請求したいところだ。中国も世界的な不景気のあおりを受け、やったら今年の正月休みは例年に増して長い。旧正月の始まりと終わりがはっきりしないのが今年の特徴か。

 三十歳代初頭の若い頃、まだネットもなく、中国にデータ入稿が出来ない頃のことだ。金額の大きい注文が旧正月前に決定した。翌日の飛行機を予約し、帰りを考えず、紙焼き(版下)を持って香港に飛んだ。現地商社を通じ、工場3社に振り分けた。各工場の香港事務所で打ち合わせが終われば、忘年会に誘われ、すべて付き合った。挙句には体を壊しそうになった。連日のように、忘年会ではポーカーゲームがあり、商社の担当者に借金する羽目になった。更には、すべての仕事が終わり帰国しようとエアーの予約を入れようとしたが、キャセイ・パシフィックがストに突入した。3日間、朝から空港でスタンバったのだが、全くダメ。一週間後には、香港の旧正月に突入だ。「その前までに帰国できればいいや」と、帰国を急ぐのを諦めた。商社の日本人寮が空いているとの連絡を受け、九龍のホテルを出て、香港島の寮へ向かった。

 コーズウェイ・ベイのバス停からバスに乗る。バスは、高層アパートが隣接する坂道を小高い丘へ駆け上がる。百万ドルの夜景が一望できるアパートの高層階に寮はあった。気候は暖かいし、観光に来たような気分だ。フィリピン人の住み込みのお手伝いさん(アマさんと現地では言う)が、朝夜と食事を作ってくれた。2日間、ここで過ごした。アマさんは食事の後片付け、掃除、洗濯が終わると、近所の公園へ行き、香港人の子供を世話している同じフィリピン人のアマさん達数人と合流し、会話を楽しんでいる。2日目、何もすることのない私を見かね公園に誘ってくれた。ポカポカ陽気に優しいフィリピン人の女性達。彼女達にあやされる赤ん坊になりたいと思った。その他の時間は、とりあえず安いバスに乗り、香港島の観光に勤しんだ。その日の夕方、こんな優雅な生活をしていてはいけないと思い、他国経由で帰ることを思いついた。

 台湾経由は全便満席状態で、待っても難しいと言われたので、韓国経由で予約したところ、翌日の夕方のソウル行きに空きがあった。すぐ予約し、寮の国際電話を何度も使うのは気が引けるので、九龍のホテルへ戻った。ハイアットの横にある元ハイアット内にあった安いが旨くて有名な店に一人で夕食を取りに出かけた。料理は当時、当たり前に大皿。料理3皿とスープを取り、どれも沢山残した。その後、接待の下見と称し、商社の人の仕事が終わるのを待ち、日本人向けのカラオケ・スナックへ行った。第一興商のカラオケで歌いまくった。翌日夜にはソウル金浦空港へ到着した。現地は雪。約2年ぶりの韓国だ。タクシー乗り場へ行くと、黒い見慣れない高級そうなタクシーが並んでいた。‘93年夏に開催される大田(テジョン)万博の為に出来たと後から聞いた。それに乗り、かつて常宿にしていたホテルへ向かった。私が勤めていた会社にはソウル支店があったのだが、乗り継ぎで訪韓した連絡はあえて入れなかった。その夜、一人でフグチゲの有名店へ行き、二人前をすべて平らげた。一週間、中華ばかりだったからなあ・・・・・・。翌日、朝一番の飛行機で東京へ戻った。成田で出迎えてくれたのは、人ではなく、時間であった。また、時間に追われる日々が延々と続く私なのであった。

中国 河北省の省都・石家荘 

 「毒入り餃子」事件で一躍有名になった「天洋食品」。河北省の省都「石家荘」にある。今から16年前の‘92年、「石家荘第一印染廠」という国営公司に、生地印刷の立会いで出張した。北京も河北省であるが、特別行政市なので省都ではない。北京がある省の都なので、少しは栄えているかと思いきや、とってものどかな田舎街であった。北京の南々西方向へ約350km位の場所であろう。北京でチャーターしたマイクロバスがパンクし、しょうがないからと汽車ポッポにしようと軟席(一等席)の予約を取ろうにも取れず、どうしたわけか長距離の寝台バス?という何のこっちゃ?みたいなバスで行くことになった。北京の駅の周りには 出稼ぎの流民が溢れている。戦後の日本、上野駅の周辺もこのような感じであったのだろう。

 中国人の通訳に「寝台バスじゃなくって、リクライニング席のバスじゃあないの?」と、笑いながら聞いてみたが、彼は寝台バスと譲らない。「何だって行ければいいじゃあないの」との客の一言で短い論争を終わらせ、一時間後に出発するバスを待った。バスが到着し窓の中を良く見ると、本物のベッドが2~3段に横たわっている。通訳の日本語は正しかったのだ。彼は窓を指差し「ほらね」のような顔している。ベッドの半分が起き上がり、その部分はリクライニングになる。時間は夕方の6時。到着は12時頃とのこと。トイレは無い。ビールはヤバイということで、免税店で公司へのお土産として買ったウイスキーを皆で飲むこととした。途中、舗装されていないガタゴト道も多く、その揺れも手伝い、皆酔いに酔った。

 途中、起きて外を見ると、大きな都市を通過中なのであろう、まばらなオレンジのナトリウム灯の下や暗闇の中に多くの人がいることに気付く。隣に寝ていた某大手レコード会社系の常務曰く「ヒトデは海にいる。中国じゃあ人手はそこらじゅうにいるなあ~」とのダジャレを子守唄に寝付いた。どういう訳か中国では滅多に無い12時かっちり、定刻通りに石家荘駅近くのホテルに到着した。ネオンもホテル以外なく、人気も全く無い暗い街である。繰り出そうにも繰り出す繁華街など無く、チェックイン後、皆静かに寝入った。朝起きてホテルの窓から外を見れば、駅につながる道には自転車で通勤する人で溢れかえっている。近所の公園横にある大理石で出来た豪華な博物館だけが、この街の中でひときわ異彩を放っている。

 駅から真っ直ぐなセンター通りの突き当たりに目的の印刷工場はある。天洋食品の現地映像を見ていたら、16年前と周りの風景は一変していたが、どうもこの通りの突き当りで同じ場所にあることに気付いた。駅前の映像も出てきたが、昔の面影も無い程、りっぱな建物が乱立しているのに驚かされた。当時、博物館横の公園では、皆真昼間からビリヤードに勤しみ、多くの手打ちラーメン屋台が出ていた。パンパンと音を立て打っている麺を食べようと皆で屋台でラーメンを注文した。折り悪く風が強かった為に麺にはまばらに巻き上がった砂がブチブチと入っている。うどんのようなラーメンだ。食ったがコシがなく砂でジャリジャリして、スープの味もない。「

上海・常州出張 初めて知った「新幹線」 

 先週から、中国上海・常州へ出張した。時まさに中国全土が四川大地震の喪に服している5月19日から21日にかかっていた。テレビは娯楽番組等の放映を自粛しており、ホテルではNHK・BSも入らない。客四名の内二名が中国出張は初めてであったので、帰国前日の夜、東方明珠テレビタワーへ登り外灘(バンド)のライトアップされた夜景を見ようと繰り出した。しかし、いつもの夜景とは違う。ライトアップの自粛で、川沿いは真っ暗になっていたのだ。

 上海市街の街頭スクリーンでは一日中、地震の様子が映し出されていた。人民解放軍のヘリが爆音けたたましく災害地に降り立つシーンや、瓦礫の下から人を救助するシーン、胡錦濤主席や温家宝首相が被災地を視察し人民を励ますシーン等、まるでハリウッドの映画のような構成だ。共産党をこの時とばかりにアピールし、人民の支持を取り付けようと意図しているのであろう。日本のニュースで見るような、現場の実態映像は少ないように思えた。

 南京東路の和平賓館前から西へ延々と続くペプシの広告には、赤い生地のカバーがかけられ「中国加油!」(中国ガンバレ!)と白でプリントされていた。その漢字の下には白いラインがあり、まるでペプシの看板をコカ・コーラが包んでしまっているようでもあった。当初、広告の自粛のように感じたが、問題が発生し、なんだかの理由でコカコーラがペプシの看板を隠してしまったのであろう。自粛ならば「四川加油!」のはずである。

 常州で仕事を終え上海に戻る際、私一人の時はいつも電車で戻る。約200kmの距離であるが、上海へ向かう帰りの高速道路で事故渋滞に巻き込まれる頻度が高い。渋滞になれば5~6時間もかかる。更に時間がかかるときもある。私は寝ていればいいのだが、運転する貿易公司の総経理(社長)は可哀想だ。彼は渋滞で疲れ、私を上海のホテルへ送り、また常州へ帰らなければならない。帰りは深夜だ。彼の約丸一日が私の送迎で潰れてしまう。

 そのように考え数年前、常州からは電車で上海に帰ることにした。いつも、彼は車で送ると言うが、直前に電車で帰りたいと言い、その会社のスタッフにチケットの手配をしてもらう。各駅停車の電車でも2時間半位である。渋滞がない分、確実に時間が読める。彼も送迎に時間を費やす必要が無い。私も訪問したい上海の会社へアポがスムーズに取れる。夜の食事の予約も取りやすい。皆にとって私が電車で帰ることは利益につながる。

 今回、総勢五名なので、中国出張前に電車のチケットを購入するように現地の貿易公司に連絡を入れておいた。前日に全員のチケットを渡された。いつもは約20元(300円、ゆりかもめより安い!)であるのが、今回は客もいるので軟席(一等席)でとリクエストしたところ、一人61元(950円)であった。早速、不要!不要と言われたのだが立替の金を支払った。これでも安いのだが、駅へ行って驚いた。なんと、日本の新幹線、現地での名前は「和諧号」だった。

 東北新幹線「はやて」「やまびこ」に採用された「E2系1000」がベースとなっている。客席前方のディスプレーに、252kmと速度が表示された。常州~上海間の所要時間は一時間15分。席もファーストクラス並の快適さで、上海まであっという間だ。到着後、客がスリなどに会わないよう、ホームに出てタバコを一服し、乗車していた全員が改札へ向かうのを待った。ホームが閑散とした頃、改札へゆっくりと向かうのだ。タクシー乗り場で2台に便乗し、ホテルへ向かった。チェックイン後、皆を誘い早めの上海観光に繰り出すことも出来た。この新幹線を使うと、上海近郊エリアの出張はとても楽になる。

ホール・イン・ワン 出張時の出来事 

 昨日の「ソフト・イン・ワン」つながりで今日のお題は「ホール・イン・ワン」にしてみた。今日は一体どこまで書けるのだろうか?ま、いいか。「ホール・イン・ワン」は皆さんもご存知の通り、まるでババナの断面のような犬の肛門のことだ。あっ、違うか。ゴルフで第一打でボールがホールに入ることだった。私にそんな経験があるはずも無い。ゴルフを最後にやったのは、‘95年の台湾・台中市出張の時が最後だ。某大手電鉄系子会社の常務と課長と一緒だ。常務孝行が念願であると言っていた課長のリクエストであった。

 その客先の課長は、常務の出張経費までもが十分出るよう、デカイ仕事を無理やりバーターで取ってきた。常務が行かれるとあっては、気が抜けない。当初は利益が出るようにと考え、台北から南の250km先にある台中市にある過去に数回取引をした小さな工場とその下請け工場で生産しようと考えていた。常務が来るとあっては、途中トラブルが発生すると命取りになる。いつものようにトラブルを解決しながら騙し騙し生産管理をするという訳にもいかない。しかたなく、利益率が下がること覚悟で台中市では2番目に大きい工場を選んだ。

 当初提出したスケジュールはかなり短縮された。今回の注文はワンサイズ・ワンカラー・ワンスタイルなのでその大きい工場の総経理(会長)は現在入っている仕事をすべて子会社と下請け工場に振り、すべての数量を自社工場でやるとのこと。このようにすると工場の利益は莫大なものになるらしい。元のスケジュールには常務の出張日までも入っている。生産管理も厳しく新しい社屋で、すべての機械も近代化されている工場である。常務の出張予定の一週間前にはすべてが終わってしまうことになった。その旨を担当課長に報告した。 

 「オレから常務に今更言えないからオマエが言え!」と課長が上からのたまった。しょうがないので常務にお話したところ、「更にいい生産条件になるのなら、それに越したことは無い」とのお話だ。「常務が工場に行かれても、すでに商品は出荷済です」と念を押した。「すでに予定を入れ経費も計上しているので、向学のために行く」とのこと。「そうか・・・、それでも行くのか・・・」と私は落胆し、出張前、江東区有明のフーゴル・チーウーシパナーじゃねえや、ゴルフ打ちっぱなしの練習場に嫌々ながらも2回も足を運んだ。足を引っ張らないようにと。

 出張前日、台北に住んでおり占領時日本語教育を受けている気さくなお爺さんのタクシー運転手さんに電話しタクシーを予約した。台湾出張の時は、蒋介石国際空港までいつもこのお爺さんに迎えに来てもらう。割引交渉して約250kmでニュー台湾ドル3,000元だ(当時の円換算で1万2千円位か)。お爺さんの実家が台中市にあることも割引の要素になっている。東京~軽井沢間の距離でこの料金であることを考えると、桃園駅にタクシーで行って電車に乗ることが出来なくなった。わずか3時間で台中市に到着するのだから・・・。

 お爺さんは昔の丁寧な日本語を話す。そしてマンダリン(北京語)を話す。長い車中ではよく北京語を教えてもらった。「タバコを一箱下さい=チンゲーウォーイッパオシャンイェン」、「灰皿下さい=チンゲーウォーイェンフェンカン」やら「トイレはどこですか?=シンショーチェンツァイナーリー」とか、香草が苦手だったので台湾名物の香草がたくさん入っている牛肉麺を注文する際必要な「香菜はいりません=プーヨーチャンツァイ」等など、今すぐ自分に必要な言葉ばかりだ。お爺さんから習った言葉は、その後の中国大陸出張でも当然使えた。

 客お二人は千葉在住であったので、成田空港から今は無き日本アジア航空で台北に向かった。羽田の中華航空に慣れていた私には成田が遠く感じた。昼には台北空港に到着し南国情緒を味わいながらお爺さんのタクシーで台中市の工場に直接向かった。工場に到着し設備だけを一通り見学した。終わっている仕事であるのに、会長と経営陣すべても集まり形だけの打ち合わせをして、その後ホテルへ向かった。夕食は工場の接待だ。ライオンズクラブに入っている会長と経営陣、おまけに台中市の議員をしている息子も来た大げさなものになった。

 翌朝のゴルフは会長の口利きでタダ。私のスコアは114。迷惑はかけなかった。課長はシングルであるそうだが、レンタルではやる気にならないと常務の影で私にこぼした。南国台湾でのゴルフはサウナの中でプレーしているような蒸し暑さである。午後は台中市観光お決まりのコース、日月譚(実は人口湖)と九族民族村だ。途中、露天で買った冷えてないが美味しいライチを食べながら・・・。夜も会長が接待してくれるという。そんじゃあって事でお相伴にあずかった。ま、正客である常務はデカイ会社から出向している人だからなあ・・・。

 翌朝ホテルにお爺さんのタクシーが迎えに来た。実家に二泊したとのことだ。車中、課長も常務も寝ている。あっという間に台北国際空港だ。金を全く使わなかった私は、お二人に空港で茶器と高級な台湾のお茶をおみやげに買いお渡しした。オマケとして安い台湾名物パイナップル・ケーキもお渡しした。なんでお題と書かれている内容がここまで違うの?って思っても時既に遅し。単なるこじ付けでしかないのだから。書くきっかけになったんだから良しとしよう。カテゴリーは「出張時の出来事」だ。増えた。めでたし、めでたし。

上海蟹 

 今頃の時期、上海に出張時には上海蟹をご馳走になることが多い。蘇州にある「陽澄湖」で獲れる上海蟹が本物で、その他は偽者だそうだ。上海の高級レストランのメニューを見ると「時価」と書かれており、だいたい200元~300元位がその相場であろう。大きさや重さによっても値段が違う。客として上海であっても高価な上海蟹で饗応される以上、上海人のその食べ方のルールに沿って恭(うやうや)しくお相伴に与らなくてはならない。これを食べるのがまた面倒くさいのだ。

 腹と甲羅を分離させるところまでは日本の毛蟹などと全く同じであるが、その後、楊枝サイズの足の中にある肉を、その足の先の爪を使って器用にほじくり反さなければならないのだ。または、その爪を少し突っ込んで、身を反対方向へ押し出す。そして少し身が出た段階で、ストローを吸うように身を吸い出すのである。ちまちましたこの作業を繰り返していれば、当然、皆口数が少なくなる。確かに蟹の味が濃く凝縮されていて旨いことには旨いのだが・・・。

 そうしてすべての足を制覇した段階で、次に先ほどの足よりも身が固まって多くある蟹の甲羅の内側に進むことが出来る。足をもぎ取った部分の内側にある身である。そして最後は、甲羅のど真ん中にある大きな卵のような身と蟹味噌に進む。この部分がこの儀式のクライマックスである、本当に旨い。卵のたんぱく質が凝縮されたものに栗の食感と香りを感じさせる、まさに珍味である。全行程約三十分位はかかる。この食べ方を知らなくては上海人のエグゼクティブとは言えない。

 そのような上海人のルールに沿った儀式を何度も経験し、仕舞には日本の蟹のほうがラクでいいなあと思い始めた私であった。蘇州の北、無錫の次の常州に行った際、開発区にある大きなレストランに招待された。広い敷地にあるそのレストランの駐車場へ車を止めると、キャディーカーより少し大きめな電気自動車が迎えに来る。それに乗り、腰の部分までスリットが切れ込んだチャイナ・ドレスを着た沢山の小姐が出迎えるレストラン入り口まで向かう。

 この切れ上がったスリットを見る度、そのスリットを90度回転させ真ん前と真後ろに移動させたいという欲望に駆られる。おっと、話が反れた。そのレストランは食材が並べられており、その中から選べるスタイルの店だ。値段も表示されている。野菜を選び、北京ダッグ風のものを選び、そして海鮮コーナーへ行くと上海蟹がなんと20元と表示されていた。あの沈黙の時間に突入するのはもう耐えられないと思っていた私であったが、現地の人がそれを人数分注文してしまった。

 席に座り会食が始まった。途中、ニセ上海蟹が出てきた。上海人に教えられたルール通りにちまちまと細い足から食べ始めると、それを見た現地の人はとっさに「プーヤウ(不要)」と言った。足なんか食わないで中身だけ食えとジェスチャーする。それは有難いと思った私は、果実のような真ん丸の中身をペロリと一気に吸って食べた。上海で食べた本物より偽者のほうが旨く感じた。偽者はとっても食べ方がラクでいい。そして思い掛けなく旨いことを知ったのだった。

 食後、上海に戻る私を車で上海まで送ろうとしてくれたが断わった。常州駅から電車で約2時間位であるので、送ってくれる彼らの労力と高速の事故渋滞に巻き込まれればそれこそ6時間くらいかかってしまう時間が読めない車の送迎は、双方にとってとても無駄である。私を送ればまた常州に戻る労力と時間もバかにならない。上海到着が夜になるのも嫌だ。約40元の乗車券は買ってくれた。払おうとしたが受け取ってくれなかった。

 そしてその夜は違う仕事のパートナーを誘い上海にある日本居酒屋「栄」に繰り出した。小さな器に小さく盛られた「肉じゃが」は、なんと40元だ。600円は日本並みの値段である。この値段の格差はとっても笑えるものだ。上海の普通の食堂に入れば、ビールも頼んで2~3品取って普通の食事が出来る金額としては40元は十分すぎるくらいなのだから・・・。このような場合、自分は日本にいると思い込ませるしかない。

出張時の出来事(11):航空機事故 

 1985年8月12日、夏休みを利用してグアム島へ行く為、私は成田空港にいた。夜出発のNW便である。搭乗手続きも終わりあとは搭乗開始を待つだけだ。搭乗案内の掲示板前に座っていた時、掲示板の出発便の表示が各便共に突然「Delayed」になった。待合室のテレビを見ると日本国内で飛行機が墜落したとのテロップが流れていた。日航機123便が御巣鷹山に墜落した詳細は翌日グアムのホテルの朝刊で知った。

 1994年4月26日、羽田発08:50中華航空107便に乗り台湾へ出張した。台北の蒋介石国際空港からタクシーに乗り約3時間の台中へ向った。午後3時には現地の会社に到着して打ち合わせ後、2件の工場視察を終えた。食事の接待を受けた後、台中のホテル・全国大飯店で就寝した。翌日、起床して朝刊を見ると中華航空機が名古屋で墜落との記事があった。

 グアムは旅行、台湾は仕事であるが私が飛行機に乗る日に2回も事故があった。私にとって、航空機事故はとても近いところにあると思わずにはいられない。両墜落事故は忘れる事が出来ない程印象に残った。

 時期は定かではないが、UAの最終便で韓国ソウルへ向う時も怖い思いをした。成田を離陸した飛行機が、東京上空で旋回している。空席だらけであったので、窓側に座り東京の夜景を堪能していた矢先、突然ガタンという大きい音と共に機内の照明がすべて消えた。乗客が騒ぎ出し悲鳴も聞こえた。1分位経った頃であろうか。乗客がパニックに陥る寸前で照明が点灯した。前方の一部の天井からは酸素マスクが降りている。

 「これも運命だ」と私自身は開き直っていた。冷静であった。機内アナウンスがあり、電気系統の故障で成田に戻るとの事。成田空港に戻り、UA手配のリムジンで舞浜のシェラトン・グランデ東京ベイに宿泊する事になった。この時に限って幸運にも仕事は1~2日の余裕があった。ホテルで翌日ソウル行きの航空機を予約した。

 またある時は、これも時期が定かではないが、韓国のメーカーが確認サンプルを送る約束の日に送れなかったので、ハンドキャリーを依頼し成田空港に迎えに行った。来るはずの飛行機が一時間位遅れていたので、展望台で離発着を見学していた。UA機が今まさに着陸しようとしている。着陸は成功だ。その矢先、右側の円筒のエンジンが煙を噴き上げ機体から離脱し、UA機よりも先に滑走路を滑るように走っている。乗客には影響が無かった様だが、飛行時であったら大災害である。夕刊と翌日の朝刊をチェックしたが、この事故は報道されていなかった。

 航空機事故の確率は、他の乗り物の事故より格段に低いとの事であるが、私がそう思えないのは上記のように現場に近いところに居合わせたのが理由である。

出張時の出来事(10):発注の方法 

 日本から香港へ来る大口の客は夜の饗応や料理を期待して来る。現地の担当者は、旅行会社の添乗員の如く付き添う必要がある。発注金額が大きい客の場合、他の香港商社へ行かれない様、行動を縛る意味で昼の観光も上手く織り交ぜて接待する。私の場合、仕事が細かい時は、空港に迎えに来させる訳にも行かず、自分でタクシーに乗って様々な会社を巡ることを覚えた。

 日本のビジネスマンを見ると、現地の人に空港から連れられるタイプと私のように一人で動くタイプに分かれる。連れられるタイプは、意外にも大手の会社に多いと感じる。現地で他社を新規に開拓したり、現地の展示会巡りをする場合、一人で動くと現地の商社に拘束される事無く自由に動けるのがいい。このようにして開発した業者も何社かある。

 上海では、仕事関係の現地の人と打ち合わせ後、接待を受けることもあるが、現地人で日本語の通訳をやっている友人がいるので彼らと一緒に食事するほうが細かい情報を得る事が出来る。仕事の連絡で細かいニュアンスが伝わらない時には、彼らに中国語に訳して貰うこともでき、お世話になった分、食事代は私が出す。

 アテンドや食事につられて一日中現地の担当者と一緒にいると、その国やエリアの現状が見えなくなる。選択肢も無くなり、販売の機会を損失するケースも多々ある。その担当者の過去の経験則から出来ないと断言されたり、予算に合わなかったりすることは頻繁にある。現地に赴く際は、決定している仕事を持って現地で何社かと打ち合わせ、納得した上で発注しなければならない。

 単に国際電話だけのやり取りや、現地からの見積もり提示だけで発注先を決めてはいけない。業者が見積もりを出すのは当たり前だ。常に何社かで価格を競い合わせ、決定後、現地に入って数社を巡り出張費も取り戻し更には益率も上がるくらいのコストダウンを考える。日本人の発注は本当にぬるい。賢い外人の人たちは、どの国よりも日本人との交渉は簡単であると感じている。

 数社から見積もりを素早く出させ、決定後現地入りして競わせた上で発注先を選ぶ。この手順であれば、決定した仕事を持っているオーラを放ちながら優位に立つ事が出来る。ゆえに自分一人現地で動く必要がある。「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ」。夏目漱石の『草枕』の冒頭だ。

 仕事の場合はそれと全く違う。「智に働いて角を立て、情捨て甘さに釘をさし、意地は瞬時に貫通させろ」。電通鬼十則のようでもある。他の仕事にも追われ、なかなかこのように行かないのが実情であろう。ただし、この発注方法は基本中の基本である。まず最初に、厳しさを自分に向けることが前提になる。私自身の反省も含め再確認の為、書いてみた。

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