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オスプレイとメスプレイ 

英語の「オスプレイ=osprey」とは、鷹科の一種「みさご」のことである。今回米軍普天間基地に12機配備された。従来の輸送用ヘリコプターに比べると、時速は2倍の520km、航続距離は5倍の3,900km、輸送兵員数24人と2倍、搭載貨物量4倍の9.1トンと能力が格段にアップし日米同盟の実質が強化された。尖閣問題で一触即発のこの時期に、それら配備の時期も偶然に重なり僥倖にもパワーバランスが取れた。日米同盟は確実に機能しているという実例であろう。

しかしこの「オスプレイ」というネーミングは日本人にとりエロモーホーで耳当たりが悪い。「雄+プレイ」に聞こえる。バラ族か!だ。オスプレイは、左右の固定翼に回転翼(ローター)を備えている。だったら、左右の固定翼に回転大人の玩具(ピン○ローター)を備えた「メスプレイ」を日本独自の技術で開発したくなる。「オスプレイとメスプレイ」、まるで「ロミオとジュリエット」のようではないか。この二人が空中給油の際に結ばれるとしたらもう最高!ヒューヒューだ。

だが悲しいことにメスプレイの飛行は叶わない。翼に装備されているのは回転玩具なのだから…。「私もオスプレイと一緒に空を飛びたい!」と、メスプレイは一日中泣き明かした。翌朝、それを見たオスプレイは優しく聞いた。「何で泣いているの?」と。「だって涙が出ちゃう、女の子なんだもん!」。「それだけ…?」 若い二人は何時間も強く抱きしめ合いプレイした。終った後、オスプレイはタバコをふかしこう言った。「僕の片方の回転翼を君にあげるよ」。

こうして二人はただのヘリコプターになり、一時的ではあったが楽しく空を飛び回り愛を育んだ。オスプレイが戦闘よりも恋愛を優先させた結果といえよう。恋愛に必要な回転玩具を手に入れてしまったのだから…。オスプレイは若い。その後、他のメスプレイともたくさん浮気した。これを見た他の11機のオスプレイも皆、メスプレイに回転翼をあげ、回転玩具を貰い恋愛に勤しんだ。オスプレイはアレを覚えたての男の子、終には2人のメスプレイに両回転翼を差し出す始末。

メスプレイは12機どころではなくその倍、24機も造られていた。オスプレイは皆、第一段階としてヘリコプターに成り下がり恋愛に夢中になる。ヘリの段階では一個しか回転玩具を持っていないが、夢中になると2個欲しくなる。すると次のメスプレイが現れ、回転翼と交換する。これで飛べなくなる。飛べなくなったオスプレイ達は一箇所に集められ、それこそ男同士の雄プレイに励むしかない。結果、オスプレイは中国の脅威では無くなってしまったのだった。

回転翼を備えたメスプレイは日本の北西方向へ飛び去っていった。メスプレイはなんと中国製であった。オスプレイは、中国に仕掛けられたハニートラップにまんまと引っ掛かけられたのだ。米軍は慌てて回転翼4発のレディープレイを開発し、メスプレイを待ち受けたが、メスプレイには既に中国製の回転玩具まで搭載されていた。中国軍は現在、回転翼が6発のジェントルマンプレイを開発中。日本は、このプレイが終ることをpreyするしかなかった。(おしまい)

編集後記)今回、よくオスプレイのネタだけでここまで書けたもんだ!と我ながら感心した。これも皆さんのブログ拍手のお陰だと謙虚に思っている。最近、5拍手以上ないと次は書かないゾ!と尊大に思っている。読んだら絶対に拍手してネ!ココに↓ 次も頑張るから…。結局、謙虚じゃない?

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ぼくのおしり 

ぼくのおしり
港区立お台場第4小学校 1年2組 〇〇き 〇〇お

 ボクはきのうお父さんとお風呂に入りました。お父さんもお母さんも、ボクと入る時は、お風呂につかって大声で100まで数えなさいといいます。すごいたいくつです。とってもイヤです。そんなときは、たまにですが、ごうりてきに59からとつぜん90に飛ばして読みます。じかんがせつやくできます。この飛ばし方はバレにくいと分ってきました。ボクはごうりてきであるとおもってますが、りょうしんはインチキだ、うそはドロボウの始まりと言います。ボクはウソはほうべんと勉強しました。バレるとおしおきです。今度は200まで数えろというのです。

 おばあさんは、それをせっかんだといいます。おばあさんはりょうしんに「ニタモノ夫婦だ」といいます。インチキしたらりょうしんはボクに「じごくの200をしなさい!」といいますので、「煮たもの」になるのはボクだとおもうのでした。お風呂から出るとからだを洗ってくれます。お父さんは、100数えるのは、アカがよく取れるからだといいます。アカ狩り=レッドパージなのかとそのときおもいました。ボクを洗ったタオルをせんめんきにつけると、アカがたくさんういてきます。ボクは、おとうさんもしょせん、GHQのかいいぬだったのかと落胆しました。

 お風呂のかがみで見ると、ボクのせなかの下には、のっぺらぼうなふたつの顔がならんでいます。それはおしりといいます。「おしり」 このことばをきいたり言ったりするとおともだちは誰でも笑います。たえられないのです。きっと「おしり」は笑いのツボ、こどもをハッピーするちからがあると思います。ボクのゆいいつのネタです。おかあさんはあまり「おしり、おしり」っていっちゃダメとおこりますが、やっぱり、笑ってます。ふりむいて自分のおしりをかがみで見ても、おもしろいと思ったことはありません。おしりの笑いのほんしつは一体何なんだろう?

 真実にせまろうとおもったボクは、ある日、お母さんがいないあいだに、さんめんきょうにあった手鏡をたたみにおいて、一体何がおもしろいのかを、けんきゅうしようと思いました。おそるおそる半ズボンとパンツをぬぎ、かがみの上にまたがりました。はっきり見るのは生まれてはじめてです。ゆっくり見ることにしました。「エエッ!」、2つとおもってたおしりはなんと1つ。割れ目の奥はつながり、割れた谷の底にきれいではないキクの花がいちりんさいていました。穴にささったキクいちりん。あり地獄にはりついた菊の花びらのようでもありました。

そして、それから十年が経過した) 

 生まれてから6年、ボクがおしりで笑えなくなったのはこのときからです。現実は笑えないほどきびしいことを思い知りました。あの時、おしりなんて見なければよかったと後悔しきりです。笑いがなくなりつまらない人生になりました。この大事件のあと、ボクは「おしり」ということもなくなり、おもしろいとも思わなくなりました。「おしり」には全く興味がなくなったと思っていましたが、約十年後、自分のではなく異性のソレの本質を見極めたいとほのかに思うなどとは、このとき分かるはずもありません。今回のタイトル「ボクのおしり」は、青春期の続編として「キミのおしり」としてリメイクもできますが、下品を通り越し、ド非品、ヒヒ~ン、お馬さん、パッカパッカとなるので止めましょう。映画化も子供の教育上、絶対無いでしょう。では皆さん、最後になりますが、とてもお寒いので、体だけはどうぞお下品になさって下さい。

短編 『舌切り婆さん』 

 女装好きな21歳の男が、大好きであった男にフラれた。失恋の痛手を癒そうと、ミニスカートをはき無謀にも山登りに出かけた。途中、足を滑らせ岩にぶつけて大怪我をした。その後、大雨にも遭った。疲れ切った体はこれ以上動きそうにない。日が沈む前、運良く農作業用の小さな小屋を見つけた。小屋に積まれた藁に包まれ一夜を明かした。翌朝目覚めると、木戸の節々から何本もの光の筋が射し込んでいる。時が経つのも忘れ、細目をあけ見とれた。すると突然、光の何本かが遮断され暗くなった。それからゆっくりと木戸が開き、小屋の内部を太い光が照らした。

 戸口の中心にあった人影は、この小屋の持ち主のお爺さんのものであった。お爺さんは小屋の中の男に驚いた。男が事情を話すと、すぐに竹筒に入った水で男の傷口を洗い手拭で応急処置をした。家が近いのでそこで休むようにと男に勧めた。うなずいた男がゆっくりと立ち上がった時、男のはくミニスカートを見てまた驚いたお爺さん。あごが黒ゴマ状になった男に、性別を尋ねることはなかった。家に着くと、お婆さんが温かく迎えてくれ、すぐに朝食のお粥を炊きお風呂も沸かしてくれた。男は喜んで風呂に入ってヒゲを剃り、朝食の後には薄化粧もした。

 無口なお爺さんはお婆さんに男の事情を語ろうとはしなかった。すぐにお爺さんは男を家に置いたまま畑仕事に出かけてしまった。お婆さんは目が悪かったので、声は低いがその男は女であると思い込んでいた。お婆さんは客間に布団を敷き、突然の来客に少し喜び、何を勘違いしたのか、一旦、そこに寝た。すぐに気を取り直し、布団を敷いたことを男に告げた。疲れていた男はすぐに布団に向かった。布団に入るや否や、深い眠りに就いた。――――――― 一体、どれくらい寝ていたのだろうか?男は自分の顔に何かが触れるのに気付き薄目を開けた。

 なんと、お婆さんの顔が目の前にある。お婆さんは男の布団に入り男にキスをしようとしていた。お婆さんはレズビアンだったのだ。フランス生まれのお婆さんは心の中でこのラッキーな状況をこう呟いた、「レズビア~ン、トレビア~ン」と。何かの勘違いか夢であろうと思った男は、その状況を一旦は受け入れた。お婆さんは徐々に荒い息づかいになり、ナメクジのような舌を男の口の中に入れ始める。お婆さんは喜びに包まれ心の中でこうも呟いた、「殻なしエスカルゴ~」と。男の限界は近付いていた。でもまだ寝ているフリを続けた。そしてついに堪えきれなくなった。男はお婆さんの顔を振り払うようにして反対側に寝返りをうった。

 フランス住まれの日本人だが、中国留学の経験もあるお婆さんのメンツは完全に潰された。メンツが潰された場合、中国人は黙っていない。お婆さんは留学以来、とても中国好き。怒ったお婆さんは男に覆いかぶさった。人との意見調整は嫌いだ。民意は嫌い、独裁は簡単で好き。何度もデープキスを繰り返した。男はついに限界。ついにお婆さんの舌を噛み切った。痛さで「ヒイェェェ~」と叫びたいお婆さんであったが、舌を噛み切られたので声にならない。泣きながらもお婆さんは、はだけた男の股間を見やった。するとフランスパンのバゲットのようなものが垂れ下がっている。ここでようやく男であることに気付いたお婆さんであった。

 男は一目散に家を飛び出し、片足を引きずりながらも自力で山を降りた。夕刻、北朝鮮のスパイであるお爺さんは家に戻った。拉致した男が少し気がかりであった。いつもならお婆さんは機関銃のように話しかけてくる。今日は何も話さないし元気もない。当たり前だ、舌がないのだから。会話がないまま夕食の時間になった。今日の前菜は「牛タンの梅肉バルサミコ・ビネガーかけ」。「四足はイスや机以外、飛ぶものは飛行機以外すべて食べるのが中国人」とお婆さんは中国で学習済み。その後、赤ワインで程よく酔ったお爺さんは寝室へ。ネグリジェを着て薄化粧もした。そして自分のイエス・ノー枕をイエスにした。なんとも仲のいい二人のお婆さん達。


短編 『パジャマ』 

 「こんな爺臭いパジャマなんか着てられるかよ!」と、長男の龍太郎は泣きじゃくりながら母親にいった。これは前回のブログの続きではない。とある家族の話だ。「じゃあ、ボクが着るよ」と、母を気遣う優しい次男の健斗。父親は数年前に不慮の事故で亡くなり、母子家庭の三人家族。二十歳の時結婚し、三十路手前で生まれた長男。遅くに生まれた長男を甘やかし過ぎた母親。世間は夕食時。騒ぎを聞きつけ、隣家の結衣ちゃんがパジャマ姿で現れた。

 「結衣ちゃんみたいなパジャマがいい!」と泣き叫ぶ長男。「どこのパジャマなの?」と母親は聞いた。「上海国の有名ブランドだけど、サハ共和国製なの」と結衣。縫製とデザインの良さに感心する母親。ネット上で、上海国か香港広州連邦共和国製かと一度は悩んだ母であった。が、モーリタニア製の安さに惹かれ買ってしまったパジャマであった。そんな反省も少しある。「こんなタコ臭い、生臭いパジャマなんて嫌だ~」と泣きながら駄々をこね続ける長男。

 「龍太郎君!私のパジャマ、着てみる?」と、年長の結衣がやさしくいった。喜ぶ長男。葛藤する母親。結衣はためらう事もなくパジャマを脱ぎ、龍太郎に着せた。更に喜ぶ長男。諦める母親。その後、結衣も龍太郎のパジャマを着て子供達三人でゲームを楽しんだ。気付けば午後9時。「あっ、いけない!帰らないと」と結衣。病を患いこの数年間寝込んでいる弟の看病もしなければならない。龍太郎とおない年の弟である。「パジャマを結衣ちゃんに返しなさい」と母親。

 その言葉を聞くや否や、また大泣きする龍太郎。母親はすかさず「お前は一体、いくつなんだい?」といった。龍太郎は首をうな垂れ、左手を掲げ、左指すべてを開き、そして右手の指もゆっくりと3本開いた。「聞き分けの無い80歳だねぇ~」と呆れる母親。「今日は貸してあげると」言い丁寧なお辞儀をし、龍太郎のパジャマを着て玄関を出る82歳の結衣。「結衣ちゃん、また明日、遊びに来てね!」と、龍太郎の躾すべてを放棄する母親は109歳。時は2100年10月1日、アメリカ合衆国のファーイースト・アイランド、日本州での話。

短編『偽装手袋』も見てね! ←ココをクリック 時は更に50年も前。




短編童話 『氷売りの少女』 

 真夏の炎天下の昼時、小さな少女が一人、海岸でカキ氷を売っていた。全部売り切るまでは家へ帰れない。そんな少女の気持ちが海水浴に来ている人々に伝わるはずもない。皆、少女の前を通り過ぎ、大きな海の家へと向かう。「お父さんを一刻も早くあの寒い店から脱出させてあげなくては」。なにも分からない少女の思いは一途だ。唯一の家族は父親だけ。

 父親は毎朝、「おまえがカキ氷を全部売って、迎えに来てくれなければお父さんはクーラーの寒さで凍え死ぬかもしれない」と少女に言う。そして、街道沿いのパチンコ屋へ出かける。少女は海岸へ。陽射しが刺すように痛い。今日は頭も痛い。少女の皮膚は何度も剥がれ重度の炎症を起こしていた。痛みを少しでも和らげようと、氷を台から外して皮膚に擦り付けた。

 薄れる意識の中、氷の冷たさと共に、母や祖父母が少女に語りかける幻相が現れ、氷が解けるとその幻相も消えた。また新しい氷を取り出し頬擦りしてみる。すると、家族と一緒に遊んでいる幻相が現れ、解けるとまた消えた。また氷を出した。そして強く抱きしめた。母親が現れた。少女を膝の上に乗せ、やさしい声でいつまでも絵本を読んでくれる。

 氷が解けると母が消えてしまうことを恐れた少女は、残りの氷をすべて出して母に甘えた。その氷もすべて解けた。母が消えないようにと、解けた氷で水を含んだ砂に、最後の力を振り絞り、小さな人差し指で「おかあさん」と少女は書き続けた。―――――砂に書いた文字すべてが波に消される頃、母は少女を優しく抱きしめながら天国へと昇っていった。

韓流風ドラマ『冬の・・・』 

 雪降る北国の並木道。そこをひとりトボトボ宛てなくさまようお爺ちゃん。厚手の白い毛糸のマフラーを両肩からだらしなく垂らしている。とても寒そうだ。刺されるような痛みを感じているに違いない。さまよう内、いつも街外れの市場にたどり着く。眼鏡市場(ペ・ヨンジュンがキャラの)だ。すれ違う人は皆必ずお爺ちゃんに挨拶をする。数年前まで地元中学の校長を務めていた。この街の人ほとんどは、お爺ちゃんの教え子といってもいい。お爺ちゃんは挨拶される度に、「どなたですか?」と聞き返す。それも必ず自分を指差しながら。

 そう、実は「私は誰?」と、会う人すべてに尋ねているのだ。お爺ちゃんは既に壊れていた。夕方になると毎日、お爺ちゃんを探す長男夫婦の声が聞こえてくる。お爺ちゃんを心配して頭が禿げたわけではないが、禿げた長男が白い息を吐きながら走ってくる。極寒の冬の小さな街を舞台に、深く積もった雪を溶かさんばかりに熱く繰り広げられる家族愛。ドンドン壊れていくガラス細工なお爺ちゃん。そんなお爺ちゃんを支える家族を韓流タッチで描いた開局60周年記念ドラマ、第一話『冬のドナタ?』 丁寧に言えば『冬のドナタ様ですか?』

 第二話は、お爺ちゃんの先祖が街の北東の山にある城址のお殿様であった時代から今日までの苦難を描いた『冬の其方(ソナタ)』。第三話は、家臣と共に中庭の廊下で日光浴する脳天気な殿様を皮肉った『冬のヒナタ』。第四話は、文武をおろそかにし豪遊三昧がついには江戸に知れ、挙句、北国から南国九州へ転封を命じられた殿様の悲哀を描いた『冬のカナタ』。南国へ転封させられた殿様は暑さに嫌気がさし、家臣の制止も振り切ってついには脱藩してしまった。仕方なし職を失した家臣たちは代々木に集まった。浪人だから・・・・・・。

 しかしそれまで、藩の財政を殿様の代わりに一人で切り盛りしていた妻は諸々のストレスから解放された。♪小さなバラと真っ赤なパンジー、子犬の横にはあな~た~、あな~た~がいてほしい~と、小さな一軒家住まいになってしまったが、元殿様をどこまでも慕い愛する女を描いた第五話『冬のアナタ~』。そんな一途な愛を貫く妻であったが、環境のギャップに心身が衰弱し下半身までもヤラレてしまった元殿様。そんな不能な小鳥セキセイ・インポのような旦那を抱えた妻の下半身事情に肉迫する最終回第六話『冬のヒガタ』。

乞う、ご期待あれ!!

短編 『子牛の姉弟 ソテーとグリル』 

 姉のソテーと弟のグリルはとっても仲のいい子牛のきょうだいです。このお姉さんと弟の組み合わせを書く場合、難しくは「姉弟(してい)」、簡単に書く場合は漢字の兄弟をひらがなで「きょうだい」と書きます。勉強になったねぇ~!二頭は群れから離れ、広い牧場のもっとも高い場所にある山裾でお昼寝中です。弟のグリルはまだ赤ちゃん。一週間前まではお母さんのオッパイを吸っていましたが、ようやく歯も生え牧草を食べられるようになりました。お昼寝の前までは、生えたばかりの歯で近くの草を食べていましたが、何せ赤ちゃん、眠気には勝てません。反芻した草をお口に入れたまま、飲み込む前にウトウトとしてオネムさんになってしまったのでした。姉のソテーは、そんなあどけないグリルが大好きです。必死で眠気をこらえながらグリルを見守っていました。

 すると遠くの方から人の声が聞こえてきました。きっとこちらに近付いて来るのでしょう、だんだん声が大きくなってきます。人には慣れていますので、そのまま二頭は寝ていました。聞き覚えのあるその声は、いつもの吉野さんと松さんです。その二人の後を追うように牧場主も走ってきました。彼らは来るたびに、毛並みもいいし艶があると二頭を誉めます。姉のソテーは目を閉じながら話を聞いていました。誉められれば悪い気はしません。将来、二頭を欲しいとまで言っています。この牧場も居心地がいいけど、あの人達の牧場で暮らすのもいいかなあと考えるようになってきました。

 「吉野さんと松さんの牧場はいったいどんな牧場なのかしら?」 今日も期待に胸を弾ませるソテーです。マザー牧場のように、広い牧草地の脇でたくさんの家族が大きな笑い声をあげながら楽しそうにバーベキューが出来る牧場であったり、小岩井牧場のようにたくさんの子供たちが絞りたての牛乳やアイスクリームを美味しそうに飲んだり食べたり出来る牧場であったらいいなあと、考え続けました。たくさんの人間に囲まれ、いつまでも暮らしたいと思うのでした。ふと谷を見ると、大きな牛二頭がこちらへゆっくりと歩いてきます。先頭の牛はお爺さん牛で牧場一物知りの「シチュー」でした。

 「シチューお爺さん!吉野さんと松さんの牧場はいったいどんなところなの?」と、ソテーはシチュー爺さんに聞きました。「ワシが聞いたところでは、大きな鉄のお風呂があるそうな。なんでも、牛の健康の為、風呂に玉ネギをた~くさん入れてコリをほぐしやわらかくしてくれるそうじゃ」 そこへ急に割って入ったお婆さん牛のカレーが言いました。「紅生姜は食べ放題じゃと。私も死ぬ前に一度でいいからそんな極楽気分を味わってみたいものじゃのう」 吉野さんと松さんの牧場?そんなものがこの世の中にあるはずもありません。彼らは牛の前では牧場といっていますが、本当は「お店」を「牧場」に置き換えた彼らの隠語なのです。皆さんがよくご存知の牛丼の2大チェーン店の二人です。お婆さん牛のカレーが言った極楽気分は、実は極楽浄土なのでした。
 
 人間は牛に対し、すべてが嘘まみれなのです。そう思ったほうがいいでしょう。牛に事実を伝えられるわけがありません。このことは絶対に牛には言わないで欲しいのですが、彼らの戒名は生まれながらにして決まっています。――――「ビーフ」です。牛のきょうだい「ビーフ・ソテー」と「ビーフ・グリル」、祖父母牛の「ビーフ・シチュー」と「ビーフ・カレー」、そして親戚でロシア牛のビーフ・ストロガノフ(正式にはビフはロシア語で~風と訳します)。フランスかイギリス牛のハーフである「ビーフ・コートレット=カツレツ」やアメリカ牛の「ビーフ・ステーキ」などがもっとも有名な戒名です。人間は生きている牛たちに戒名を教える事はありません。故意に隠しているのです。

 この戒名を人間は他の動物にも同様に教えることはありません。豚の戒名はポーク、鳥の戒名は漢字で書く鶏であったりチキンであったりします。このように人間は自分たちの都合がいいように、勝手に名前を変え、食べるまでの一連の殺生からあえて目を背けているのです。食べる前の挨拶やお祈りは「感謝」ではなく本来は「懺悔」でなくてはならないのです。しかしながら人間は、「いただきます」やら「アーメン」などと薄っぺらいことを平然と言ったりはしますが、罪の意識を感じることはまずありません。その前に、お金を払って買っているという思い上がりも多分にあるのでしょう。果たして、お金を払えば免罪されるのでしょうか?このように考えていくと、人間は誰もが罪を背負って生きていると言うことが出来ます。違うと言い切れる人は、精進料理を食べているお坊さんか、菜食主義者に限られているのですから・・・・・・。

カタツムリの親子問答 

 季節は梅雨。「ああ~、このジメジメとした湿気がなんとも爽快!タマラナイなあ~」と、紫陽花の葉の上をカタツムリの親子が2本の糸を引きながらそぞろ歩きをしていた。お父さんカタツムリが言った。「おっと、メーアーリーフーだぜ」そして「かめあたま」とも。呆れた息子のカタツムリが言った。「お父さん!今時、業界用語を使うのはお笑いのアイツと大橋巨泉だけだよ~、カッコ悪い!」 お父さんカタツムリは言った。「そうオマエに言われるんじゃないかと思って『かめあたま』を付け加えておいたのさ。決して漢字に変換して音読みしてはいけないよ、ボク!」 息子のカタツムリはこう切り替えした。「これって業界用語じゃないよね?パパ」 お父さんカタツムリは言った。「そうだよ。逆さまから読んでごらん」と。「アッ!パパ分かった。『また雨か』だね」 と、自分で書いていても嫌になる位のつまらない話をしながら、否、させながら終わりのない旅を続けるカタツムリ親子。

 「カタツムリにとって世の中で一番怖いモノって何?」と息子のカタツムリはお父さんにきいた。当然、旱魃(かんばつ)やカンカン照りの太陽との答えを期待していた息子であったが、お父さんの答えは一味違った。「やっぱ、一番怖いのはなんて言ったって人間だなあ~。それも特にフランス人。『カタツムリだ~』と日本の子供たちに言われても全然怖くないけど、フランス人に『エスカルゴ~』って言われたらそれこそ捕まえられ喰われちゃうからネェ~」。「次に怖いのは何?」と息子がきいた。「ん~、コーラと塩かなあ。コーラに浸けられると巻貝が溶けちゃうんだ。そしてナメクジと勘違いされて塩ふられちゃうんだよ」。「あっ、パパ、それに近い話知ってるよ!今このくだらない話を書いてるオヤジが以前の短編『ヤドカリ君の冤罪』で同じようなことをたしか書いてた。ヤドカリの貝殻が無くなっちゃってエビに勘違いされたって話。ボクたちはその焼き直しっぽいネ」

 「カタツムリ、デンデンムシ、マイマイなんて人から呼ばれているうちが華。殻が溶けたり壊されたりしたら最後、ナメクジとして生きていく決心をしなければならない!それこそ、銃弾が飛び交う最前線に全裸で突進していくようなものだからね」。息子のカタツムリがきいた。「じゃあ、ナメクジのほうが劣ってるってこと?どっちが生物学的に進化した生き物なの?」 「実は無防備なナメクジの一部はカタツムリが進化した生き物なんだよ。巻貝が無い状態でも生きることが出来たんだね」。「じゃあ、平和な時代が長く続いたってこと?殻が無くなってナメクジになったら、カタツムリと同盟を結び守ってもらえばいいんだ」と息子のカタツムリ。「でも近隣の状況を考慮して安全保障は今一度考え直し、殻を整備することも選択肢の一つだね」。と、柔らかめの物語を志し書き始めたのに、今回はどっちつかずの「軟硬不落」状態で強制終了してしまうのであった。つまらなくってゴメ~ン、スミマメ~ン!

短編 『新・藪の中』 

1:ある講談師の「見るマナー」の話

 最近の寄席には「子供にも見せたい」という子供連れのお客さまが増えてきた。先日、国立演芸場でトリをとらせていただいた寄席では、仲入り少し前に楽屋入りし舞台袖から客席全体を確認した。前列左端に小学校低学年と幼稚園生らしき姉弟が2人座って足をぶらぶらさせていた。
 
 私は少し不安になった。以前、新作の発表の際、幼児が騒ぎヤマ場が台無しになってしまい、それがトラウマになっている。今回のトリでは、「赤穂義士伝」の中の「南部坂雪の別れ」を語るつもりでいた。その中でも四十七士の名前の読み上げ部分がもっとも聞かせどころで子供が騒げば集中できない。
 
 いよいよ私の出番になった。心配していた子供達が騒ぐ事も無く、ヤマ場を迎えた。会場はそれまでの掛け声も消えシーンと静まり返った。四十七士の読み上げも無事話し終えた。満場の拍手を浴び袖に引っ込むとどっと汗が出た。
 
 楽屋口を出ると、さっきの子供を連れたお母さんらしき人とすれ違ったので私が挨拶をすると、子供を促して一緒に「有り難うございました」と返してくれた。「あぁ、この親にしてこの子あり」。端の方に座っていたのは、子供がグズればいつでも退場しようと思っていたのであろう。そうあって欲しい。子供の教育うんぬんの前に、親のマナーが大切だとつくづく思った。


2:子供を連れたお母さんの告白

 あの日は、朝から本当に大変な日でした。主人が、父親の誕生日のプレゼントに寄席のチケットを主人とお母さんの分も含め3枚取ったのですが、その日の朝、お父さんの持病である心臓発作があり、家族全員で主人が運転する車でかかり付けの病院に行きました。
 
 お昼頃には、父の発作も治まったのですが年齢も年齢とのことで、主治医から寄席に行くことは無理であると言われました。父はベッドの上で私に、チケットもあることだし、いい機会だから子供達も連れて寄席に行ってきなさいと言ったのでした。病室と病院の廊下をバタバタと騒がしく行き来していた子供達も昼過ぎにはグズってきたので、成す術を知らない私は一つ返事で子供達を連れ出し寄席に向かいました。
 
 後妻として嫁いで一ヶ月にも満たない私は、私に懐かない可愛げの無い子供達を連れて退屈な病院を出るしかなかったのです。寄席は私も初めてなので、子供達を静かにさせるために寄せの前にデパートのおもちゃ屋さんへ行って寄席中静かにさせるためにおもちゃを買い与える事にしました。当然、その場で買うことはしません。あらかじめ品定めをさせておき寄席を静かに見る事ができたら、その帰りにまたおもちゃ屋に戻って買ってあげると約束をしただけです。

 あのガキ共は一旦買ってあげたら、それまでですからね。前妻や父母は怒る事が全く無く徹底的に甘やかせて育ててきていますので…。さらなる保険もかける必要があると思ったので、そのデパートの隣りにあるファミレスにも寄席後、連れていって大好きなハンバーグを食べさせる約束もしました。
 
 そこまでしたのに子供達は寄席中、グズり足をバタバタさせていました。その度、なんとかオモチャとファミレスで釣って静かにさせていました。主人は寄席の途中に迎えに来る事になっていたので、なんとかそれまで頑張ろうと思いました。何度も主人にメールを入れましたが、なかなか来る気配はありません。そろそろ限界を感じた私は、私の睡眠薬を半分に割り子供達のジュースに入れました。
 
 今日子供達はお昼寝をしてなかったので、睡眠薬の効果はてきめんでした。子供達がまんまと寝てしまったので寄席のトリを迎える前、主人に電話をしようと一旦演芸場の外に出たところ、外は大雨が降っていました。傘も無いので私と子供達だけで帰ることも儘なりません。仕方なく寄席の最後までいる事になってしまったのです。


3:小学校低学年の女の子の告白

 ママが病死してもうすぐ1年になります。ママが入院している時、パパは朝、弟を幼稚園に送っていくのですが、いつの日からか弟がこう言うようになりました。「幼稚園の先生は、ボクの先生じゃなくパパの先生になっちゃった」と。「日曜日にパパは僕の代わりに幼稚園にいっている」とも言いました。何人かのお友達からも、パパが先生と一緒に車で出かけているのを見たと言われた事もありました。

 ママが死んでからは度々先生が来る様になり、ママがいなくなった寂しさでしょうか、弟はとてもそのことを喜びました。先生はその後、頻繁に家に泊まっていくようになりました。ある日、パパと先生が二人揃って私達を呼び、「今日から先生をママと呼びなさい」と言ったのです。「先生はママじゃない」と私と弟は、しばらく泣き続けました。

 先生はその後、幼稚園を辞めました。パパが出張の時はとくに、ママのように私達をデパートに連れて出かけたりするようになったのですが、玩具売り場やファミレスに私達を置き去りのまま、2~3時間は戻ってきません。携帯電話に電話やメールがあると、お友達に会う約束があると言いながらいつもいなくなってしまうのです。戻ってくる時は、きつい香水の匂いがします。
 
 弟と二人きりでお留守場を任された時、死んだママがよくこう言っていました。「ママの代わりになって、ちゃんと弟の面倒をみるのがお姉ちゃんの役目よ」。わたしは弟をあやしながらママの帰りを待ったものです。ママや近所のおばさんたちには、「いつも静かでおりこうさんね」と褒められたものでした。「本当に手間がかからない子ね」ともよく言われました。

 お爺ちゃんもよく私達をお出かけに連れて行ってくれました。お爺ちゃんが好きな寄席にもよく行きました。聞いても難しくて全くわからないのですが、静かに聴いてなさいとママに言われていたので二人でいつも静かにしていました。お爺ちゃんはいつも静かにしている私達を誉めてくれました。


4:巫女の口を借りたる亡くなったママの告白

 私も実は後妻でした。私は娘が幼稚園に通っていた時の幼稚園の先生でした。私にも懐かないその子供達を生んだ前妻は、職場によく子供達を連れて行ったと聞いています。講談師であった前妻は、まだ二人の子供が物心付かないうちから自分が出演しているビデオを見せていました。母親が仕事で外出している時、二人がグズったら母親の講談のビデオをかけるだけで静かになったと聞いています。私も結婚した後、その事をお母さんから聞きました。そのビデオの中でもなぜか「赤穂義士伝」が大好きで、意味がわかるわけではないのですが一発で子供達は静かになりました。
 
 娘は、子供の仮面をかぶった悪魔のような子でした。今の母親は幸運なことに私の妹です。私が死んだ後、主人との結婚を決意してくれたのですが、娘の嘘に翻弄されノイローゼになってしまいました。主人の病弱な両親に迷惑をかけまいと子供達と買い物に出かけると言いながら病院通いを隠しています。


※この話は平成18~19年にかけて産経新聞に連載された神田 紅(女流講談師)さんの「暮れない日記」を基にアレンジした作品です。
 

短編『竹薮』(4)最終章 

 その後の僕は、たけの子は墓地の竹薮にあるといった感覚、死人の食べ物、あのドラム缶の風呂に浸かっていた竹薮の中の悪魔の食べ物という感覚に、大人になるまで支配され続けることになる。たけの子ご飯が美味しいと心底思えたのは、あの時、竹薮の中の親切なお爺さんから在りかを教わり、それを採ってハイキングから帰ってきた友達の家族と一緒に食べた、尽きぬ会話と溢れんばかりの笑顔に包まれて食べた、あの夕食の時の一回だけだ。あれが最初で最後なのである。

 親の言う事をよく聞きいい子であろうとしている友人が何故、あの時、お爺さんに石を投げたのか?子供である彼に対し、まるで友達や兄弟のように見えたご両親であるおじさんとおばさん。その前で彼はいつもいい子であろうとしていたのであろう。裏では舌を出しているようなそんな不真面目さを知ってしまった僕はいったいどうしたらいいのだろうか?一人の中に、二つの性格があって、どちらも悪い子供であるという恐ろしさがあるのだから・・・・・・。この浮き彫りになった事実を、彼の両親にどうにか伝える方法はないかとも考えた。子供の嘘に気付かず、一生騙され続けるあの優しいおじさんとおばさんがとてもかわいそうに思えてならない。

 反面、越えられない壁の存在を常に感じさせる僕の両親。僕にとっては怖い親としてしか存在しない。だから、悪巧みもせず普通に自分らしく両親に接しているほうが楽だ。身近に怖いものがあったほうがきっといいに決まっている。彼のあの行為さえ無ければ、墓地から入った竹薮を突き進み学校裏に辿り着いていた。大きな竹薮の現実、竹薮は一つであることを僕が素直に受け入れることが出来たのではないか、と未だに後悔している。(終わり)



 この短編は「無差別殺傷」や「家庭内教育の在り方」をテーマとして書いた。偶然、本日付け産経新聞に以下のような記事が掲載されていた。
 私立狭山ケ丘高校(埼玉県入間市)の小川義男校長は「がまんする心や耐える心を教えることは個性を殺すなどと言い、規範意識を育ててこなかった」と戦後教育を批判。その上で「人生はやってはいけないことの連続だが、そこにこそ心の豊かさやさまざまな想像力が生まれるのではないか」と話している。
(以上、産経ニュースより引用) 本文はココをクリック



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