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アンコール編) 孫子と北島三郎『夢の対談』 

アンコール編) 孫子と北島三郎『夢の対談』 2007年6月14日

孫武『兵法』を語る

まず、皆様が私の生前の名前をご存じないので、そのご説明からさせていただきたい。私の名前は孫武と申します。私が中国の春秋時代(B.C.500年頃)書いた書が『孫子』です。没後に尊称となりました。戦略に関しては、古今東西の最良の書が拙著『孫子』と評価をいただいております。大変有難いことです。クラウゼヴィッツの『戦争論』も拙著を参考に書かれたものであるといわれておりますし、また、ナポレオンは拙著を読み、実戦で生かしたと聞きます。

近年、これを「ビジネスに生かす」という観点で解説した書も多く見受けられます。 軍事戦略には人が関わる以上基本的な約束や法則が必要です。時代を超え輝き続ける普遍的な法則を見出さなければなりません。この基本法則を抑えずして戦略・戦術に走ったとした場合、途中、かなりの確率で最終目標を失いがちです。刻々とかわる目の前の状況変化に翻弄されるのが世の常であります。それらに陥らないように兵法書『孫子』を書き綴った次第です。

基本的法則が無い場合、目的に辿り着くための手段が目的であるかのように勘違いすることが往々にしてあります。「目的のための手段」と「本来の目的」のすり替えとでも言いましょうか。日本でも先の大戦時、本来戦争に勝つ為に機能する筈の陸軍「参謀本部」と海軍「軍令部」の無連携等がいい例でしょう。当時の軍部中枢は、官僚主義に走り、自分の所属省の権益保持と自己保身のみを考えたので、的確な状況判断も指示も出来ない。

敗戦の原因が自分の決断にあったと揶揄されることを恐れ事なかれ主義に徹した結果、日本は敗戦しました。拙著「謀攻篇」には「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」とあります。己の欲を知るばかりで彼を知ろうともせず、まして国家運営と戦争の関係など考えようともしなかった。このような事象を本末転倒と言います。またはフェティシズム(フェチ=目的倒錯症)ともいい、それは国家を運営するシステムの障害に他なりません。

現代でのフェチの例を引けば、男性は本来生身の女性が好きなのに、その目的にたどり着く前目的半ばでパンティーに興味を持ってしまったとでも申しましょうか。日本の軍部の場合も、いい娘を得ようとしたのですが、目的倒錯症に陥りパンティーで悩んでしまった。娘のパンティーを盗むつもりが派手なパンティーを目の前にし、母のか娘のかで悩んだ。結果、木綿の地味なパンティーを選んだ。盗んだそのパンティーは実はお婆さんのものであった。

これはもう底なし沼です。手段からして悩んでいる。目的などは考えてもいないのですから。そんな間違いを犯したのが先の大戦の敗因とでも申しましょうか。リスクは高いですが、スカートめくりのような地味な下調べや調査が足りな過ぎた観は否めません。少し話が長くなってしまいました。私は日本へ来たのは初めてです。しかしながら、日本歌謡界、とりわけ演歌界の大御所として有名な北島三郎氏のお噂は中国でも聞こえてきます。

かねてより私の兵法と共通するものをお持ちであるとの噂を伺っておりました。北島さん、その部分を中心にご説明いただけたらと思います。隣国より時空を超えはやる気持ちを抑え今日の対談に駆け付けて来ました。私のほうが年配でありますので、ニックネームでお呼びして宜しいですか?サブちゃん!

日本演歌界の巨匠 北島三郎 『兵法』を語る

(少し照れながら) 先生がおっしゃる共通性につきましては、山本譲二と小金沢昇治も呼んで三人でずいぶん考えたのですが、一つだけ心当たりがあると昇治が言いまして・・・。先生が『兵法』ならば、自信はないのですが、私の場合は『ヘイヘイホー』ではないかと…。「ヘイ」が一つ多いのですが、これじゃあないかという結論に達しました。これは単に、木こりの掛け声に過ぎず、先生の『兵法』に及ぶものなどでは毛頭ないと考えた次第でございます。

孫武 『ヘイ兵法』に言及する

サブちゃんの『ヘイ兵法』の第一章に、「与作は木を切る、ヘイ兵法、ヘイ兵法」とあるではありませんか。「与作」とは、すなわち作に与するということでしょう。「作(なすこと・はたらき・穀物や野菜を作ること)に与する(味方する・かかわる)ことは、即ち木を切るようなものだ」ということです。けだし名言ではありませんか。「目的から外れた小さな働きごとにかかわることは、まったくをもって無駄である」と私はかなりの拡大解釈を致しました。

巨匠 北島三郎 恐縮しながらも孫武にツッコミを入れる。ハァ?モシモシ、オイオイ、ナイナイ!

孫武 ホッと胸を撫で下ろしサブちゃんに感謝する

サブちゃん!いつ私を止めてくれるのかと、そりゃハラハラしながら話していました。これ以上『ヘイ兵法』のネタを膨らませるのは不可能。この対談からは「三十八罫・逃げるが勝ちよ」って感じですねぇ。おっといけない、これは私ではなく諸葛亮だった。「孔明死すとも自由は死せず」か。おっと、これは板垣退助じゃあ~ありませんか。※その後、二人は小金沢の運転で八王子のサブちゃんの自宅に向かった。サービス精神旺盛な北島ファミリーであった。

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老子と外科医ウイリアム・カウパー氏 『夢の対談』  

アンコール編) 
老子と外科医ウイリアム・カウパー氏『夢の対談』 2007年6月13日

老子 『人の道を説く』〈第七十七章〉

自然の道は引いた弓の曲線に似ている。上端のものは押し下げられ、下端のものは引き上げられる。余りすぎは減らされ、足りないものは補われる。自然の道は余っているものを減らし、足りないものを補うのである。一方、人の道は足りないほうを減らし、余っているほうへ補うのである。いったい余りすぎるものをもっていて天下の人々のためにおぎなうことのできる者は誰か。唯一、「道」を有した者だけが天下の人々の為それを補うことができるのである。
 
それ故に賢者はそれをするが、誰がしているのかわからない。成功しても名声を求めない。そして、他人よりも優れていることを見せびらかすようなこともない。性交するときは、名声ならぬ喘ぎ声が出てしまうのも人の道であろう。他人よりも優れて大きいことを電車の中で見せ公にすれば次の駅で逮捕されることは条例にあると聞く。「この行為は人の道から外れますが、先生の得意とする尿の道の本質に通ずるのではありませんか。カウパー博士?」

外科医ウイリアム・カウパー氏 『尿の道を説く』(=我慢汁の第一発見者)

尿の道は弱アルカリ性でなければ人作りの道に外れ、人が生まれでる道にも悪影響を与えます。両者の道を清めその後、ほどこされる者の道を弱酸性に中和し、更には往来を滑らかにする。この神聖な行為すべてに関与しているのが私の名を冠としたカウパー氏腺分泌液(日本名=我慢汁)なのです。先生がおっしゃられているように賢者は余っているほうを天下の為に更に補うことが出来ると言われますが、これは日々精進、我慢の賜物なのでしょう。

日本では昔から私の発見した液を我慢汁と言います。天下の為、己を捨て我慢する日々の中、尿の道を経て先走ることもありましょう。先走る過ちを犯してまでも人々のために補い続けなければならないのは使命とも言えます。人はすべて平等ではありませんが、機会の平等はあります。陸上競技でもスタートの時、ライン横一列に並びますが、これも目で見える機会の平等と言えます。その後、スタートの合図では「尿意ドン!」と言うではありませんか。

※老子はカウパー氏の『尿の道』に少し憤った。そして反論した「博士、それを言うんなら「ヨーイ、ドン」ではないですか?」。カウパー氏は欧米風のジョークが老子に通用しないことを悟った。そして先走った自分を恥じた。「賢者の我慢は目に見えないものですが、唯一見る方法は尿の道にこそあります」。老子は思った。「懲りない奴だ」と。二人の会話は夜まで続いた。その後、席を替えようとどちらかが言い出し、夜の巷へ繰り出す二人であった。

アンコール編) トイレ研究(2) 2006年6月22日 

アンコール編) トイレ研究(2) 2006年6月22日

洋式トイレに入れば誰でも深い思索を巡らせることが出来る。ドアを開け、鍵を閉めてしまえば自分ひとりだけの世界。密室なのでどんな下品なことをしても誰も見ていないので安心だ。それと対照的なのは和式便所。何かに摑まって用を足さなければならなかったり、鍵を閉め忘れ誰かに開けられたときはケツがアラワになりながらも振り向かなければならなかったりと、思索を巡らせる余裕の欠片もない。そもそもドアが後方にあること自体、危険極まりない。

過去に和式便所の鍵をかけ忘れツーケーを見られてしまった人は、そのトラウマを背負いながら誰にその事を言えるはずも無く上品さを装って静かに人生を送っている。「この偽善者め、許せん!」と言ってやりたい。洋式トイレに入れば自然に思索が始まる。しかしその前、トイレに入った時に和式便所のほうが一部だけ勝っていることに気付かされる。ドアを開け鍵を閉めた後の行為は便座に座る事。そう、人が触れた部分に座らなければならないのである。

この便座に座る前にとんでもない言葉の選択問題が発生する。そして悩む。「この便座にはいったい体のどの部分が触れているのだろうか?」。言葉の問題にぶち当たる。『どの部分が』という問いの答えが難しいのは、人間が名付けた体のパーツのエリア特定があまりにも曖昧過ぎることに理由がある。便座に触れる箇所は一体「尻なのか太ももなのか?」というナーバスな問題。皆も便座に座る際、どの部分が便座に触れているのか考えて欲しい。

女の子の次に自分がトイレに入る場合、触れたのは「お尻であってほしい!」と神に祈る。男の後に入る時は「太ももだ、太ももだ」と自分自身に言い聞かせる必要がある。便座に座る時、自分の都合でこれだけ名称が変化する体の部分はここ以外には見当たらない。その時の状況に左右されるので明確な答えが出ない。人間が全裸で立っている場合、後方から見れば尻と足の太もも部分は明確に分かる。しかし、座ると尻と太ももは一体化してしまうのである。

かつて、このような特定不可能な名称の問題にぶち当たりそれを見事に解決した事がある。私が20歳代前半の時である。今では誰もが言う『ビキニライン』という部分の名称は当時なかった。(←あったかも…) 彼女と海に行く前夜、彼女はエーケーの処理をしていたのであるが、私は「どこのエーケーを抜いているの?」と、質問してみた。すると「あそこ」と答えが返ってきた。なんて曖昧な名称なのであろうと私は憤ってしまった。聞く私も私だが……。

そこで考えた。マ○○とアンヨの間だから『マンヨ』。自分の造語センスの良さには感動した。涙も流れた。なんてやさしく美しい響きを持った言葉なのか。なんて女の子のパーツとして相応しい名称なのであろうかと。10年後には広辞苑に乗るかもしれない。欧米の辞書にも「shousha」「karoshi」等の様に「manyo」になる可能性をも秘めている。私はその大業を成し遂げてしまった後、焼肉『萬世』の看板やネオンを見れば「マンヨ」と読むようになった。

この成功体験をもとに新語を作ってやろうと『ツーケー・お尻』と『太もも』の単語をアレコレ組み合わせてみたのだが、『ケモモ』やら『もも尻』とか『ツーケーモモ』などの、とてもお下品なイメージの言葉しか作り出せなかった。「ビキニライン」から発想し「便座ライン」がいいか!!と瞬間盛り上がったが体のパーツ名としては相応しくない。以来、この問いの答えは自分の都合のいいように考えればいいと自分自身に言い聞かせている。

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