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365日目に一年の重さを考え一年を終える 

 365日は万人に平等に与えられている。時間・安全・水・空気は、この世に生を受けた瞬間から誰でもタダであるという錯覚に陥り易い。大事な物であるという認識が先にあってのみ、認識できる人にのみ何よりも大事な物である事が解るものであろう。この時間、水、空気は自分の回りを流れている。目に見えるものは水だけである。ゆえに目に見える判り易さが、ここ十数年でガソリンより価格が高い物にしてタダという認識も無くなってしまった理由であろう。

 安全に対する日本人の認識の大きな変化は、今年の特筆すべきことである。個人は生保や傷害保険、国は日米安全保障条約等で安全を買っている。北朝鮮のミサイル連射や核実験を受け、防衛庁の省への昇格がいともスムーズに決定した。北朝鮮が日本人に対して安全を目で見えるものにしたと言えよう。周りの人々や友人の死の事実が見えるように認識できる年齢になって、更に加入したくなるのが保険の特徴でもある。現実に高齢でも入れる等の保険のコマーシャルが、テレビで喧しく流れている。

 これらのようなものに対し生来、認識する力の弱い私にとって最も大事にしている事は自分の時間をいかに管理するかである。仕事に費やす時間が最も長い。その時間を自分でコントロールし区分しなければ、明日のパンも儘ならない。であるので、私として目に見える工夫をしているが、最近その効果が薄れてきているように感じる。事務所の私の机には私の秘書とも言うべき「ビジネス・アポイントダイアリー」が置かれており、私を管理してくれている。

 就職以来約20年間、見開き一週間で縦に時間があるビジネスダイアリーを使っている。最近15年間は、ダイゴノートの「アポイント・ダイアリー」だ。商品ナンバーは「E1042」で、例年年末に銀座「伊東屋」へ買いに行くのが私として行事になった。「糸綴じ製本」であるので、常に見開きの状態にする私にとって、綴じ目まで平らに開き使い易さこの上ない。1,600円と格安だ。

 学校の時間割と同じ体裁なので、使い易く見た目で分かる当日とその日以降の時間管理が出来る。今日終わった仕事を記すだけであると、本当の日記になってしまい戦略的なダイアリーには成り得ないが、「アポイント・ダイアリー」という品名の如く今日から未来にかけてアポの予定が多く入っていることこそが、このダイアリーに求められている戦略的活用術に他ならない。企画マンとしてでなく、営業マンとしての私の本領の発揮はその部分にあることも分かっている。

 そのように未来の時間をスケジュールにして振り分けながら、万人に平等に与えられた時間を万人よりも(競合よりも)更に有効に使うことによって結果的に金が付いてくる物であるとの認識に達している。今日以降、多くのアポが取れていることが私の生活の安定に他ならないのである。しかし最近、この一週間見開きのダイアリーが、今の自分に本当に合っているのか否かで悩んでいる。

 確かに、一週間の区分で見開きなので文字も大きく書け、余白も多いので記憶力の悪い私との相性がこれほどいいビジネスダイアリーはない。しかしながら、年齢と共に受身でやらされる仕事も減り、若い時分のように分単位で仕事を刻む必要もなくなってきている。一週間も当然短く感じる年齢にもなった。今日以降のアポイントが金になる仕事であるので、見開き一週間のダイアリーの目に見える区切りが、今週以降の自分の行動にブレーキをかけているのではないかと感じるようになったのだ。来週のページを開かないと来週が見えてこないことは自分にとってマイナスであるのではないかと、考えるようになった。

 私のような原始人には、自分の目に見えてその状況を純粋に喜べる仕掛けが必要である。「未来は明るい」と思えることが、自分を動かす原動力になるのだ。戦闘機が打ち落とした敵戦闘機や敵艦の数を機体に表示するように、私もアポイントの数をそのように表示し自分を励ます必要があるのである。自分を鳥瞰できる仕掛けがないことに気付いたことは今年最後のこの日の最大の収穫である。早速、期間の区切りのないデスクダイアリーを「伊東屋」に行って選ぶ必要がある。

 このように筆任せにブログを書く事によってこんな大事な事に気づく事もある。365日の重さは、時の流れに任せ明日を待つことで感じられるものではない。今日以降の未来に人と交わる予定を入れ、自分の時を切り刻み、その切り刻んだカードを系統立てて効率よく並べ替えてまた人と会い、人と感動していくことこそが仕事であり人生だと強く感じた。そのような意識や結果が生まれる枠が時間なのだ。仕事上では、時間の流れを無視して先に飛ぶことは意識すれば簡単な事であり、今日や明日などの近い日と摺り合わせる事によって結果、相乗効果が得られる。ゆえに必ず来る明日を待ちながら今日を過ごすような愚行は分かった今から改めよう。「期待する魂」を目でも満足させることが必要だ。「誰が未来を否定することが出来ようか」。

 最後にアウグスティヌスの時間論からの引用で今年最後を締めさせていただく。彼は、彼の時間論で「私たちは魂において時間を測る」と表現した。これらの考察を踏まえ,アウグスティヌスは以下のように結論する。すなわち, どうしてまだ存在しない未来のものが減じたり,なくなったりするのであろうか。またどうしてすでに存在しない過去のものが増すのであるか。それはこのようなことをなす魂のうちに3つのものが存在するからではなかろうか。すなわち,魂は期待し,知覚し,記憶する。そして魂が期待するものは,知覚するものを経て記憶するものに移ってゆくのである。それゆえ,だれが未来のまだ存在しないことを否定するであろうか。しかしそれにもかかわらず,未来のものの期待はすでに魂のうちに存在するのである。また,だれが過去のすでに存在しないことを否定するであろうか。しかしそれにもかかわらず,過去のものの記憶はなお魂のうちに存在するのである。また,だれが現在という時間が一瞬のうちに過ぎ去るのであるから,それが長さを持たないということを否定するであろうか。しかしそれにもかかわらず,知覚は持続し,それを経て将来存在するものがもはや存在しないものとなるのである。それゆえ,存在しない未来の時間が長いのではなく,長い未来とは未来の長い期待であり,また存在しない過去が長いのではなく,長い過去とは過去の長い記憶なのである。

 今年一年、お付き合いいただきまして有難うございました。皆様におかれましては、来年も更に良い年になりますよう心からお祈りして今年最後のご挨拶に代えさせていただきます。
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自分の名前を逆さまから読む 

 自分の名前を逆さまから読んで喜ぶのが「ガキの習性」かと勝手に思い込んでいたのだが、どうも世代によって違うらしい。私と同世代の45歳前後や35歳前後は、親兄弟の逆さ名前まで言える。40歳前後は、そのような遊び方は無かったらしい。また、25歳前後も逆さ名前をすぐに言えなかった。

 先日、私の友人の女性と飲みながら彼女の悩みの相談を受けた。彼女の娘さん2人は適齢期だ。長女の名前が「千江美ちゃん」、次女が「真央ちゃん(まお)」である。

 ある日、長女がボーイフレンドを家に連れてきた。礼儀正しい好青年であったらしいのだが彼の苗字が母である彼女としては何故か気になって仕方がなかったらしい。

 彼の名前は「左近(さこん)」であった。長女が彼の家に嫁げば「左近千江美(さこんちえみ)さん」になる。もし、長女との間で何らかの問題が起こり左近君が次女と付き合ってしまい結婚しても「左近真央(さこんまお)」になってしまう。二人とも「左近家」に嫁ぐと不幸になってしまうのだ。

 相思相愛で結婚し、その恥ずかしさに後日気付いた時には時には既に遅しという場合もあるので嫁ぎ先の苗字にはくれぐれも注意する必要がある。「左近さん」であるならばまだ語尾に「さ」が付く東京便であるのでソフトな感じであるが、「今」さんに嫁いだ日にゃ直球ど真ん中だ。「左近」や「今」家に嫁いでから更に過ちを犯す心配もある。子供の名前に「まあや」や「麻衣子」と付けてしまう場合も考えられる。

 名前が流行りだかと言って「真央」や「まあや」をつける愚行は慎まなければならない。その娘が将来「左近家」や「今家」に嫁ぐ可能性がないとも限らない。ここで整理しておこう。

 千江美ちゃんが左近君と結婚した場合→左近千江美(さこんちえみ)
 真央ちゃんが左近君と結婚した場合 →左近真央(さこんまお)
 まあやちゃんが左近君と結婚した場合→左近まあや(さこんまあや)
 麻衣子ちゃんが左近君と結婚した場合→左近麻衣子(さこんまいこ)

 千江美ちゃんが今君と結婚した場合→今千江美(こんちえみ)
 真央ちゃんが今君と結婚した場合 →今真央(こんまお)
 まあやちゃんが今君と結婚した場合→今まあや(こんまあや)
 麻衣子ちゃんが今君と結婚した場合→今麻衣子(こんまいこ)

 このよう箇条書きにして比較すると「さ」が付く東京便になった方がいかにソフト&マイルドであるのかが判るであろう。「今」さんは危険極まりない。この現実から逃げてはいけない。このカキコミを見て救われるお母さんも日本に何人かいる筈だ。逆さ名前の遊びに自分の子供が気後れすることなく楽しく参加できるように名前付けてあげよう!!
 
※注)友人と話した事は事実であるが、この話はその友人との話に尾ひれが付きメシベを付けて受粉した後に神戸を垂れてたわわに実る稲穂かなである。

年度末なので今年度の事業方針の自省をする 

’06年 事業方針概要
 
 年度に於いて目標売上金額を達成させ得る精度を高める為には、先ず受注の質を重視する必要がある。偶発的な受注や売上を積み重ねた数字に依存した場合、景気や客の質に左右される。会社として目標金額達成の数字的精度を高める方法は、論理的な思考や計画的な行動が経営の基本に必要である。

 デザインやクリエイティブを基本業務とする当社として業界に広く認知される為の大きな業務区分の2つの柱としては、1)デザインやその構造に新規制がある商品を国内外問わず発掘する力と、2)消費者の購買動向を察知し消費者の利益になる新規商品の開発及び工業所有権を取得する力、の両輪のバランスが常に必要である。それらを日々継続して履行し業界に情報発信することにより、業界内での当社のポジションの認知と支持が得られ、必然的に売上数字に繋がる全循環の売上取得構造になる。

 特に工業所有権に守られた当社独自の商品は、優良顧客と出会う機会を創り出し、既存の顧客から更に将来的に顧客となる他社の担当者を紹介される機会をも創り出す。それらの特徴的な当社の商品は、双方のコミュニケーションの接点となり、当該商品の受注もさることながらそれ以外の商品受注の潤滑油にも成り得る。


 とまあ、上記のように毎年自分自身で年頭に目標売上数字と共に考えるのだが今年は達成率50%といった散々たる結果になってしまった。来年は人の一ヶ月を自分は二ヶ月のスピードで考え、先ず行動を起こしやりたいことを計画通りにキチンとやっていこう。反省が足りないか。

 今日は役所の仕事納めだ。金がある会社も今日までだ。金の無い会社は、明日が銀行業務最後の日で月末の振込みや支払いも最後になり、あたりまえに出勤する事になる。私も当然出勤だ。それにしても、一年は早い。歳月流るる如し。「及時当勉励、歳月不待人」か。

日中共同歴史研究に臨む姿勢を考える 

 日中共同歴史研究が26日から北京で始まった。「歴史は虹だ」とは、イギリスの歴史学者の言葉である。その言葉を、上智大学名誉教授の渡辺昇一先生は、自国の歴史は「日本という名の虹だ」と発展させた。私はその言葉が好きだ。歴史を虹に例えた場合、個々の事象や出来事は虹の中の小さな水滴であるが、虹全体を見る場合、見る場所、角度、時間で見え方が違う。

 独自の歴史や文化的背景をもった日本と中国で、果たして同じ歴史認識は出来るものなのか?「不可能である」と、考える日本人は私も含めて多い。民主主義、人権尊重、法治国家は日本にあって中国に無い。一党独裁の天下・中華思想を標榜する中国共産党は今、維持不可能な社会主義を表面的な旗印とし「愛国主義」「富国強兵」の真っ盛りである。

 この国の共産党を正当化させ輪郭を持たせる意味において、反日思想をも含めた外敵を継続的に作り出す手法は中国文化の伝統でもある。共産党が現在の中華だ。本来「華」は「夷」や「戎」などの蛮族に対して、優れた文化を持った者を意味し、中原と言われている黄河の流域の漢民族よって自称として用いられた。ここから、「中心の国に住む優れた文化」という意味の「中華」や、その持ち主という意味の「華人」という呼称が生まれた。中華人民共和国の国号はこれに由来している。日本は東夷だ。「東の野蛮人」になる。

 中心の国であるという意識が、その求心力を常に中心に向け保ち続ける原動力となり、個々の自由な意見は当然抹殺される。共産党が中華の象徴である限り、意見や見解は一つとならざるを得なくなるのだ。ゆえに、日本から見た様々な歴史認識も否定され、結果、共産党お墨付きの歴史認識のごり押ししか出来なくなる。中国のリベラルで優秀な学者でさえ「王様は裸だ!」と言えないのが実情だ。

 評論家の黄文雄氏が書いていたが、「中国は、人間不信の社会です。ことわざで『すべてが嘘、嘘でないのは詐欺師だけ』というものがあるほどです」。この言葉は過去から現在までの中国を言い得て妙だ。17世紀初旬のデカルトの「我思う、ゆえに我在り」と、考え方の基本は同じだ。荀子の性悪説(「悪」の意味は少し違うが)の流れから考えれば、デカルトよりも前、中国戦国末期の1,300年も前から理性を用いて真理の追究をしようという考えがあったということだ。

 このように中国では紀元前から、貪欲に真理を追求しようとする考え方は脈々と現代まで受け継がれている。今、中国の個人が「そこにある真理」であると考えているものは間違いなく「金」である。共産党が真理であると考えているものも「金」であり「国益」であろう。今やその「金」は、中国人民や共産党員を繋ぎ止める最も大事な接着剤になってしまっている。これが無ければ確実に共産党は崩壊する。

 今回、北京での共同歴史研究に参加する日本の学者は、義和団事件などの共産党発足以前(1921年)の事件や、国民党の過ち等の歴史上の譲歩は考えられる余地が有るとし、共産党が関与したあらゆる事件・事象についての譲歩は一切無いものであると心するべきだ。共産党は金や国益を死守する。ゆえに、こじ開けられない部分が分かっているのに、こじ開けようとする事は愚の骨頂である。要らぬ国際社会問題になる。

 この日中共同歴史研究は、過去の政治的な流れの中で決定した両国間の約束であり、やらざるを得ないものであると推測する。私としては、こちらからわざわざ出かけて行き罠にはまってしまうような行為であると考える。はなから共有認識できる歴史など無いものと心得、日本の歴史学者達も政治的機転を利かし賢く立ち回る必要がある。

「どこでもトイレ」or「だれでもトイレ」 どっちだっけ? 

 都営浅草線「新橋駅」の改札近くに「どこでもトイレ」の表示を見つけた。「これは日本語じゃねえ!」と、みかんを食べ食べビタミンCを補給しているにも関わらず、タバコのニコチンで相殺し更にはビタミンC不足で怒りっぽい「コラ!おじさん」になりつつある今日この頃の私だ。都営線全線のトイレがこの表示になっているのかもしれない。

 「ドラえもん」の「どこでもドア」をパックたのかもしれないこのネーミングは、どうもいただけない。誰だ!こんなネーミングにしたのは!「どこでもトイレ」ならば、駅のどこでもメンズなら立ち(Include my grandma)・レディースなら座り(except my grandma)ションOKということではないか。英語に翻訳したら、「A Toilet Is Everywhere Of Your Choice.」になってしまう。

 などと、「憤怒千万、怒っても余りあり」で、ビタミンC不足は更なる憤怒をお友達として連れてくる。「ホワイトカラー・エグゼンプション」だと~!!カタカナ英語ばっか使ってんじゃねえ!と最近の安倍首相にも怒った。国民に対して法案の趣旨を説明するのであるならば誰にでも分かるような日本語を使うべきだ。

 学校でこれらのカタカナ英語を使う事は、学生にとって英語のボキャブラリーが増えると前向きに考えればいい事であると考える。「コップに水が半分しか入っていないと見るか、半分も入っていると見るか("the glass is half full or half empty")」の選択時に人の個性が出るが、前向きな考え方は生きていくうえで大事だ。しかし、国民の税金でまかなわれている政府は、特に政策用語においては万人が理解できるよう努力する必要がある。

 と、まあこのように脈絡もなく怒りの連鎖は続いていく。「どこでもトイレ」は、もしかしたら私なんぞが分かり得ない高尚な意味があるのかもしれない。アッ!もしかしたら「だれでもトイレ」かもしれない。さ~あ!どっち?自分が携帯を落としても怒る。間違えて憶えたにも関わらず怒る。タバコを止めてみかんを食べなくては……。

酔ったオヤジは携帯落としました。自分が悪いのに…。 

 先週の金曜日から土曜日にかけて、酒を飲み久々に泥酔(?)して帰り、朝起きて確認すると携帯電話が無い事に気付いた。気付いたのが昼過ぎであったので、落としたであろう店の領収書に記載されている番号に電話をかけようと思ったのだがまだ営業時間にはなっていない。自宅から懸命に自分の携帯電話にかけてみた。拾った人が出てくれる可能性も捨てられない。何度もかけた。ディスプレーには着信で「自宅、自宅、自宅、自宅」と何度も表示されている筈だ。

 帰りの個人タクシーの可能性もあると考え、タクシーの領収書を見た。個人ゆえ個人の電話番号が記載されていると思いきや、(社)東京都個人タクシー協会と(財)東京タクシー近代化センターの番号しかない。仕方なしに個人タクシー協会に電話をかけてみた。

 留守電曰く「営業は平日の月曜日から金曜日まで」とのことだ。「意味ねえじゃねえか!」と憤激した。折角、自営業者である個人タクシーの運転手さんが協会費を納めて運営している協会で、協会員であるタクシーは土日も営業しているのにも関わらず何という参謀本部はたまた軍令部か。

 特に日本を訪れる外人さんにサービスの評判が高い、日本が世界に誇る個人タクシーである。外人さんが個人タクシーを選ぶ方法は、「個人」の漢字の「人」という文字が英語の「Y」の逆さまであると憶えると聞いた。料金は高いがサービスがいいのがかつての個人タクシーではなかったのか。

 もう一方の近代化センターにも電話した。なかなか繋がらなかったので諦めようとしたら最後に繋がった。車番や団体コード、タクシーの名前まで分かっているのに、個人タクシーの個人の電話番号はわからないとのこと。教えられないということであろう。土曜日に電話しているのに月曜日まで待たなくてはならない。土日に仕事をしている人は、このような事態になったら大変だ。

 事務所へ出勤し事務所からも自分の携帯に電話を何度もかけた。「事務所、事務所、事務所」と何度も表示されている筈だ。仕方なしに降車した管轄の水上警察に電話して問い合わせたが届出は無いとの事。都内の落し物の所轄外のネットワークは警察に無いのかと訊ねたところ、時間がかかるとの答えであった。もう一度、その日の自分の足取りを追おうと考え、飲みに行った新規の店に一度電話をかけた。落ちていなかった事は確認したのだが、しつこく門前仲町まで出かけ再確認しようと出かけた。それぞれの店は、無いと言っているのに訪問した私に対して怪訝な顔をした。

 店で落としてなければ最後のタクシーしかないと、その時点で断定し人形町の事務所へ戻ろうと門仲交差点でタクシーを拾おうとしたその矢先、門仲交番が目に入った。すぐに入り携帯の落し物はないかと訊ねた。携帯電話の番号を言うと深川署に問い合わせ、届けられているとのことであった。

 すぐ深川署へ引き取りに行った。携帯の特徴は交番で深川署と確認していたのですぐに受け渡されるものだと、当直の受付のお巡りさんに「ディスプレーに何度も自宅・自宅・自宅」と表示されている旨も世間話のように話した。だが、届出を書かなければならないとのことであった。手続きを済ませ無事手元に携帯電話が帰ってきた。

 ディスプレーをよくよく見ると自宅からかけた電話の着信は自宅になっておらず、家内の名前になっていた。それも「○○ちゃんのおうち・○○ちゃんのおうち・○○ちゃんのおうち………」。果てることなくこの着信の百連発になっていた。普段は家内の携帯電話にしか電話をしないので滅多に宅電にはかけない。きっと以前、家内と何か問題があり酔った勢いで媚を売るためにそのように入力してしまったのであろう。お巡りさんに「見られなくてよかった!」と胸を撫で下ろしたのであった。

 酔って落とすバカが一番悪い事は分かっているが、タクシー協会も警察も24時間営業であるならば、縦割りではない情報のネットワークをどうにか構築できないものであろうか。と、自分を棚に上げて、今後落し物をする人の為に考える私なのであった。

 

 

イブの夜 

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バカは死んでも治らない 

 先日、取引先の静岡の会社からみかんをいただいた。ビタミンCは体に良いので2個食べた。滅多にフルーツを食べない私は久々ビタミンCを摂った自己満足に浸りタバコを一服した。タバコのニコチンで損なわれたビタミンCを実際に補給したという満足感である。一服しながらふと思った。果たしてこの満足は正しいのだろうかと。

 タバコを一本吸うと25mgのビタミンCが損なわれるらしい。成人の一日の摂取量としては100mgほどが望ましいとのこと。みかん一個のビタミンC含有量は30mgだ。この状況から検証すると、みかん2個で60mgのビタミンCを摂取しタバコ一本で25mg失ったのであるから35mg残ったことになる。

 タバコ税高額納税者常連の私が、たった一本だけで一日のタバコが終わるはずも無い。その後も何かに満足したり切り替えの一本などと理由を付けては、日中のベランダで狂いボタルになり無常観を放っている私である。タバコ一箱分吸ったとして、500mgも損なってしまうではないか。

 みかんを17個食べないと、タバコ一箱で損なった分は補えない。それ以上食べなくては、理屈上摂取した事にはならない。「ああ、なんということだ」と、みかんを食べることはさても虚しく儚いものであったのかと、計算した愚かな自分を嘆いた。今も嘆きながらストレスが溜まり、やり場が無くなった憂さを一服して晴らしている。「ガチャ~ン、またマイナス25mgだ」。

 こうなったら先日スーパーのイオンであまりにも安いので2本買ったスペイン製トマトジュース1リットル入り\105-でリコピンを補給するしかない。ヨーロッパのことわざ「トマトが赤くなると医者が青くなる」という。トマトには、黄色の色素「カロチン」と赤い色素「リコピン」が含まれおり、このリコピンが今注目されている活性酸素を除去してくれる抗酸化物質である。リコピンの抗酸化能力は、カロチンの2倍、ビタミンEの100倍だ。紫外線や、放射能や、酒や、ストレスなどの感情の起伏によって、体内で発生する活性酸素の働きを低下させる働きがある。「す、す、すごいな~あ!!」。感心した私は先程まで後悔していた自分の愚かさを恥じ、気分転換の為、深い深呼吸と共にタバコを一服した。「ガチャ~ン、またマイナス25mgだ」。

 「だったらタバコ止めろよ!!」と、皆さんの声がたくさん聞こえてくるクリスマスの慌しい朝になってしまった。今日は、健康の為、タバコを吸いながら自転車で出勤しよう!「ガチャ~ン、またマイナス25mgだ」。

「諸人こぞりてベリー・クルシミマス」イン・台場 

 景気回復の影響もあるのであろう、今年のこの時期のお台場は人でごった返している。今日の午前中も窓を開けると、人々の足音がコンクリートの壁に跳ね返ってこだまし歩兵部隊が真近を行進しているような錯覚に陥る。それ程、人が多い。

 例年、クリスマスの時期にはお台場海浜公園の「クリスマスツリー」を中心としたクリスマスデコレーションが話題になり車で来る人も多くいる。このコアな2日間、私の仕事仲間もそれぞれに家庭サービスがあり仕事が終わり次第皆自宅に帰る。となると、私も帰るしかない。

 酒を飲んで無いので自分の車で帰宅する。この帰り道をいつもの田町側からの「レインボーブリッジ」経由にしてしまうと大変だ。レインボーブリッジの「クリスマス渋滞」に巻き込まれ自宅の車庫に入れるまで約2時間もかかってしまうのである。ぼーっと運転していると、「レインボーブリッジ・クリスマス渋滞中」という、橋の入口にしかない表示を見落としてしまうのである。

 この表示を橋の入口50mくらい手前で確認できれば、すぐに側道に逃げて橋に乗ることなく難を逃れる事が出来る。新橋・銀座方面に戻り勝鬨通りから豊洲へ抜けて湾岸経由で何種類かの道を選んで帰ることが出来るのである。車で台場に来るなら絶対にレインボーブリッジを使ってはいけない。

 正月の三ケ日も大変だ。台場の私の駐車場から車を出して台場を抜けるまで1時間位かかったこともある。「東京湾花火大会」の時などは、車がその日一時通行止めになる為、住民専用通行書を発行してもらうのだが、仕事を終えて家に帰るまで3時間かかった事があった。家が見えているのに、渋滞のせいで全く車が動かない。そこから一時間も車庫に入れるまでかかるのである。

 今日も「クリスマス渋滞」ならぬ「渋滞クルシミマス」か。「諸人こぞりてベリー・クルシミマス!!嘆きの台場に主は来ませぬ、お代官様」。「コリント人は、かりん糖食べて、パリサイ人は今日はお鍋だ、パリ菜鍋」。わかるかな~。

奇を衒う手を嫌う 

 先日のカキコミに「おこと教室のコト上手な娘」から「おとこ教室のトコ上手な娘」と自然に変換できる私の変換変体ソフトのソフトな凄さはご紹介済みである。そんなことを考えながら先日も深夜、私のおバカな頭の中の最後の脳ミソの汁を振り絞ってカキコミをしていた。

「奇を衒う」(きをてらう)を書き込もうとしたところ、「手を嫌う」と自然に書き込んでいた。前者の言葉を薄っすらと、絞り切った最後の脳ミソの汁で考えていたらこのような結果になってしまった。この言葉を繋いで現実的に使えれば実用新案になるなあと思いつつ組み合わせてみたら、「奇を衒う手を嫌う」でしっかりとした言葉になっていた。

 使い方はこうだ。「あの棋士は、奇を衒う手を嫌う」だ。みんなもどんどん使ってね。グーグルで検索したけどこの言葉は出てこなかった。は、は、発明だ。ちなみに「おとこ教室のトコ上手」も出てこなかった。は!は!は!は!発明だ。

 こうして博士の脳ミソは毎週末、「オーバーヒート」して爆発するのであった。
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