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女性の「集団的トイレ権」の嘘を暴く 

 紳士の国英国の諺に、「女の涙、犬の小便」というのがある。「どちらも余り気にする必要は無い」程の意味であるらしい。女性には大変失礼な諺であるが、私が作った諺ではない。私のガキ時代に戻り、物事の表面の薄皮を剥ぐ様な理解力でこの諺に接した場合、言葉をそれぞれ単体にて比較対照する事に考え及ばず、「女の涙は、犬の小便」のような主語と補語の関係と捉えてしまうであろう。「女は、眼帯の代わりに目にパンツをはかなければならないのか」と、真剣に悩む流れとなる。

 この諺の「涙」と「小便」の所有者を変えてみると、ぐっと意味深長な諺になる。「犬の涙、女性の小便」と。「犬の涙」については、「犬は畜生なので、人間と会話する事が出来ない。さびしそうに鳴くので目を見ると涙を流しているように見えた。しかし、よく見るとそれは目ヤニであった」。「女の小便」は、「デートの際、ちょっと化粧を直してくる、と言い、トイレに向かった彼女であったが、実は糞をしていた」。これらを総合してその意味を私なりに解釈すると、「どちらも、その不可解な行動の先を深く考えろ。表面的なものに騙されるな」となる。

 男から見ると、女性や犬の行動は不可解なことが多い。犬は話せないので、その気持ちを人間のご都合主義で一方的に解釈するしかない。犬は連(つる)んで涙を流すことも無く、トイレに行くことも無い。女性は涙もトイレも連むことが総じて多いのではないか。この連む行為の意識の裏には何が潜んでいるのであろうと、今現在の男の子も考えることがある筈である。ガキの頃の私がそうであったように…。特に、学校のトイレでは頻繁に「連れション」の実体を垣間見る事が出来る。

 男の子としての女子の連れションの解釈はほぼこうだ。「オシッコをする行為は、はしたなく下品な行為と男子に見られがちなので、皆で連んで行き、個人としてトイレに行く存在自体を希釈しよう」か。更にあわよくば、「自分はオシッコしに行くんじゃなくて、誰々ちゃんの付き合いだった」と、ご都合主義はさらに煮立っていくとも考えられる。対する男子の考え方はこうだ。「実際のところ、女子はウンコをしているに違いない」。オシッコが煮詰まるような思考の方向に飛躍してしまうのだ。

 このように、かつての私も、現在の男の子も、不可解な対象に思考が沸騰し煮詰っていく。男子が用を足す場合、個室ではない。オープンなのでやっている行為が一発で分かるのだ。ゆえにオシッコする行為を恥ずかしがる事は滅多にない。対する女子はすべて個室である。男子便所のようにオープンで小便器だけであるならば、「連れション」の行為自体も無かったであろう。女性社会の縮図は、女子トイレという「女性専用サロン」の中にあるのかも知れない。
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「あるある詐欺」から「あるある殺人事件」へ 

 「あるある大事典2」のデータ捏造は、公共電波を使ったメディアの姿勢が問われる大問題に発展した。‘96年頃、この番組を立ち上げたのは私の知り合いだ。番組と視聴者の行動がセットになっている番組企画はとても斬新であった。また、一社提供の娯楽番組としてこれほど長く続いた番組も少ないのではないか。制作現場のレベルとモラルの低さがこのような事態を招き、立ち上げた彼も、彼のクライアントも大損害を被ったに違いない。

 近年、気付いてみれば「あるある」等の「反復語」が頭に付くものには、十分な注意を要する世の中になった。「オレオレ詐欺」、「バラバラ殺人事件」、そして今回の「あるある大事典」。今後、事件を起こしそうな可能性を秘めた反復語の筆頭株はなんと言っても、「萌え萌え」であろう。「萌え萌え詐欺」、「萌え萌え殺人事件」、「萌え萌え大事典1」、「萌え萌え大事典2」、この萌え萌え大事典シリーズは何巻も続きそうな予感(悪寒も)がする。

 動物で問題を起こしそうなものは「ワンワン」だ。雑誌では「キャンキャン」か。私に降りかかりそうな可能性があるものを考えるとこうだ。「メロメロ詐欺」にかかって「エロエロ大事件」を起こす。「嗚呼、やっぱりあの人が…」となる。女性も夜の褥(しとね)では理性で自分をコントロールする必要がある。「イクイク」や「イイ、イイ」は禁物である。「イクイク殺人事件」や「イクイク腹上死」等の大事件に発展する可能性がある。

 黙っているのが得策であるが、「声を出さずにはい・ら・れ・な~い」という女性(男性も声を出す世代があるらしい)は、違う言葉に変換する事が肝要だ。例えば、「イエス、イエス」や「ノー、ノー」等の英語バージョン。または、「ヤーヤー」、「ナイン、ナイン」等のドイツ語バージョンも、事件に発展しそうな言葉の響きも無くお勧めである。

 「あるある大事典」は、あくまで娯楽番組である。「~ダイエット」等のシリーズはかなりの回数を重ねているが、すべて実践した後、こんなに痩せましたという人に出会ったことはない。あの番組をすべて見ていれば、今頃痩せ過ぎで死んでしまっているのではないか。「みのもんた」の番組までも合わせ見ていれば、ムーミン体形からムーミン谷にいるヒョロヒョロした、名前は忘れたが沢山のアレになる筈である。太っているのに豹柄のスパッツを穿いた鑑賞に堪え得ない沢山のムーミン体形のおばさんは、日本各地からいなくなる事必定であろうに。

 今回のデータ捏造事件による世間の反応を、私としてはテレビを信じて見ているオメデタイ人が世の中には多いのだなとも思えた。私も含め益々太る傾向にある意志の弱い奴等がよってたかって「番組に裏切られた」と言うのは十年早い。某有名プロデューサーがいみじくも言い得た「フィクションの無いドキュメンタリーは無い」とは、けだし至言だ。局に何万件ものクレームが殺到しているそうであるが、担当者はダイエットな(痩せる)思いであろう。

 番組や局に対する制裁は必要であろうが、「あるある詐欺」で金をしこたま取られた訳でもなく、「あるある殺人事件」で人が死んだ訳でもない。スポンサーが降板した今、「ないない大事典」、「いないいないバァ大事典」と化す日もそう遠くない。制裁も、もう少し「良い加減」が必要だ。「もう十分ではないのか」と、夕食に「納豆」を食べ、食後に「ロデオボーイ」に乗って考える私なのであった。

銭湯「辰己湯」でS藤さんに出会った 

 先週土曜日の午後6時頃、有明の温水プールへ行った帰りに江東区清澄白河の『辰己湯』へ行った。翌日と言うか日曜日も、江東スポーツセンターのプール帰りに行ったので2連チャンである。最近、毎週末「辰己湯」へ通っている。その初日、土曜日にその出来事は起こった。

 約一時間半くらいの長湯をし、たとえ女子高生に脱がされて犯されても恥ずかしくない桃色の体に磨き上げた私は、風呂を出て更衣室で鼻歌交じりに着替えていた。私の博多人形のような左側のすべすべした尻の反対の、痔の手術で大きな傷を負った右側の尻のほうから何か懐かしい声が唐突に聞こえた。

 その流れるような声は、私のヤクザな右の尻から、博多人形のような「ケツは顔が猪木です」と人形の秀月のCMのような左尻の方向に流れていった。「アレッ、すーさん!!」と。電車に乗って聞こえる踏切の音や、救急車が通り過ぎるような音の効果=トップラー効果がかかったように…。

 突然のことで貞操に危険を感じた私はすぐさま振り返った。するとそこにはニコニコ笑ったS藤さんがいたのであった。手馴れた感じでロッカーを開けS藤さんは堂々と服を脱ぎ始めた。一瞬見えたギリシャ神話のアポロンのような肉体美は、彼が脱ぐ毎にまぶしさを増して行く。その行為とは逆に私は、服を徐々に着ていったのだが、S藤さんも私に見とれ目が潤んでいたのを見逃さなかった。

 私の着衣が完全に終わると、安心したのか全裸のS藤さんから声をかけてきた。「最近、A永さんと来たんですが、この銭湯、もうやみ付きになっちゃって!」。社交辞令の割にはすごい表情が明るい。彼の顔の周りには何重にも日輪がかかっていた。観音様が全裸になったようにも見えたのだった。

 S藤さんとの突然の出会いは、若い頃に別れた男女が突然出会ったようなスッパイ香りがした。BGMには、小田和正の「東京ラブジュースのテーマ」が流れていた。私はそんな明るいS藤さんとは対照的に照れながら社交辞令を返した。「又、門仲の○○に来て下さいよ~。Yちゃんが喜びますから…」と。私の懇願風社交辞令に対して須藤さんの返事は無かった。気まずくなった私は、「では」と言いつつ辰己湯を後にした。

 その数分後、返事を返さなかったS藤さんに対し、愛の裏側に潜む言い様の無い憎しみが嘔吐のようにオートマチックに込み上げて来たのだった。私は突然、銭湯近くの彼の家の前に車を止めた。叶う事の無い「愛の成就」を体で悟ったからであろうか、行動が先にあった。「まず、ロゴスが先にありけり」ではなかったのだ。彼の玄関へ行きチャイムを三回嫌味っぽく押して走り逃げた。その際、近くにあった邪悪な金色の彼の車にも唾を吐き掛けた。

 私は息を荒げ自分の車に戻り、急発進してその場を去った。「なんて嫌な女なのかしら」と、自分を責めた。五分後、冷静になって考えてみた。ピンポンダッシュをしたはいいが、彼は銭湯にいた。唾を吐き掛けたはいいが雨が降っていた。嫉妬のあまりあらぬ行動に及びあんなに心が乱れた自分はいったい何?と。きっと彼と銭湯で出会った時点に神様が無理やり戻してくれたのかしら、と思わずにはいられなかった。

 今、冷静に考えることが出来る私を自身で確認する事が出来る。ピンポンダッシュの時、「ハ~イ」と彼の部屋から返事がしなかっただけでも良かったと思う。門仲○○の「Yちゃん」や「Cちゃん」「Mちゃん」の声がもし聞こえてきたなら嫉妬で、銭湯で出会った時点には戻れなかったであろう。(完)

センター試験「国語」に挑戦した 

 先日の日曜日の新聞に、センター試験問題が掲載されていた。この試験問題は、私の年齢の前後十歳位の人達が作成しているのであろうと考え、「一丁、喧嘩を売ってやるか」との気持ちでテレビ番組『サンデープロジェクト』を見ながら「国語」の試験問題に臨んだ。問題は大きく4つに分かれている。配点は、現代文の長文約3,600字~4,000字レベルで評論文と小説の読解が各50点で大きく2個。古文が50点。漢文が50点の合計200点である。評論文読解は、とても興味深い内容であったので最初の設問であったが、このカキコミでは最後に回し前代未聞の読後感を書くことにした。この発想はオバカな我ながら気に入った。

 現代文(2)の長文読解は、堀江敏幸著『送り火』の一節からだ。私は彼の著作を全く読んだ事が無かった。21世紀になってからの試験で、彼の著作は長文読解で出題される常連であるとのこと。読み易さといい昭和前期の情景描写といい、面白い小説家がいるものだと感心した。私が高校時代に読み耽った庄司薫(福田章二)の著作に近い匂いもする。主人公「絹代」の名前の由来が養蚕から来ている件などから推測し、私より一世代上の人かとも思ったが‘64年生まれで四年も年下だ。小説家でもある氏は明治大学理工学部フランス文学教授でもある。知らぬ間に絶え間なく湧き出し凡人を飲み込もうとする優秀な人材の怖さをも垣間見た気がした。問題は楽勝と思いながら臨んだが、一問落とした。

 古文・漢文は、現代文と違い日頃触れることもなく受験テクニックも当たり前にない私にとって悲惨な結果となった。両問共に半分は間違えた。まあ、こんなもんだと思い悔しくはなかったが、書店に行きそれらが文庫本になって安くなっているコーナーを少しうろつく年齢になりつつある私は将来、悔しく思ったりもするのであろう。すべてが終わり採点したところ、200点中140点位であった。100点換算で70点だ。ティーンの土俵で取った相撲の結果を、オッサンとしてどう思うべきか。
 
 現代文(1)の評論文読解問題は、日本とヨーロッパの「芸術理念」の相違を踏まえ日本の「庭園」の特色について論じた山本健吉著『日本の庭について』から出題された。読んでいると問題を解こうという意識の前にほのかな感動がこみ上げて来る。読むにつれ、なるほどと頷きながら活字に引き込まれて集中することが出来るのである。要約は以下だ。

 日本の庭は永遠不変の造型を願わないばかりか、一瞬の生命の示現を果たした後は、むしろ消え去る事を志向している。これは日本中世期に確立された芸術である茶や生花や連歌・俳諧等の理念と同じである。対照的に、ヨーロッパ式の庭園は、記念碑的にある形を凍結させ永久に動かないように不変の形を作り出すことを本質とする。これは人間の造型意志を後世に明確に伝えることが出来るとの考えであり、ヨーロッパ流の芸術理念に通ずる。
 しかしながら、日本の庭園の代表と海外から評価されている「龍安寺方丈の石庭」は、一樹一草も使わず、大小十五の石が五十四坪の地に置かれ、一面に白砂を敷き詰めただけの庭で、庭全体が海面の体相をなし、巌が島嶼になぞらえられ、一見するものは誰しも精神の緊張を覚える。大正十三年にこの庭を絶賛した志賀直哉氏の影響で一躍有名になったが、歳月の変化に随うという東洋古来の理念を含んでいないゆえ、永遠不変の記念碑的な造形物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上にある。
 日本の多くの庭は主の生活に溶け込んで、その中に自由に出入りすることの出来る空間であり、見るものとし対象化された作品ではない。この庭は方丈から見るものとして対象化したところに成立している。ゆえに見る為だけの庭であり、額縁によって切り取られた絵と変わりはない。毎日それとあるにはあまりにも息詰まるような、退屈きわまる庭なのである。志賀氏が「楽しむにしては余りに厳格すぎる」とも言った。庭が人の建築物に付属するものである限り、この非日常性は例外と言うべきである。(山本健吉著『日本の庭について』から要約)

 以上のように、約4,000字を約700字位までに稚拙な要約をしたので、作者の意図が伝わり辛い部分も多少あろうが、日欧の「芸術理念」の相違比較が分かり易く書かれたものである。頷きながらも、著者と私の考え方の違いが少しずつ輪郭を現し、終いには試験であるにも関わらず反論が頭一杯に広がった。読解する作業の中でこのような邪念が入り込んでしまったのだ。採点したところ一問落とした。「私の反論」とは、この石庭は、その作者である相阿弥や時代背景からして、「日本の芸術の流れの中の庭」として揺ぎ無いものであるという確証が私の中にあったからである。そのような理由から自分の気持ちを整理する為、前代未聞である試験問題の読後感を書くにいたった。以下が、出題文の読後感だ。

 相阿弥は中世室町末期の時代に生き、銀閣寺で有名な室町幕府八代将軍『足利義政』の東山文化とよばれた時代である。叡山の仏教的権威や公家・大名・侍・血統等のすべての権威が「応仁の乱」と共に崩壊する時代である。「一視同仁」と、権威の中心にいた将軍として初めて考えた義政が、禅の精神に基づく簡素さと、伝統文化である幽玄・侘びを精神的基調とし東山の山荘に銀閣を建てた。金というきらびやかな権威の象徴を否定した銀と言えるのではないか。

 水墨画ではこの時期に雪舟が出て、墨一色の濃淡と、黒と白のコントラストを織り交ぜた作画技術を駆使し水墨画様式を集大成した。この水墨画を基本とし大和絵の手法を取り入れ狩野派が起きた。これ以上ない無駄を省いて基本様式とし多様化へ発展させるこの流れは、同じ禅の精神で統一されたこの頃の庭園「枯山水」と同じである。庭園の技法も一旦基本に戻り、その後多様化が進むといった流れの中にあると考える。

 岩石と砂利の造型のみ意識的に切り取って目をやれば、永久不変な真理とも読める。しかし、その周りには塀がめぐらされており、極当たり前に塀の外の草木が目に入ってくる。それは、あたかも真理を取り巻く煩悩のようでもある。庭園を意識的に見ている自分も人間という枯れ行く自然であり、庭園の塀の外や空気でさえ造型にかかわる自然である。

 また、「光と影」との関係からも言及する事が出来よう。これは雪舟の「水墨画」に大きな共通点も見出す事ができる。陽の差し加減によって出来る陰影や、朝焼けや夕焼けによって染まる巌と砂利。雨や霧によって霞み様変わりする石庭を考えれば、自ずと不変的・記念碑的な造型でないことに気付く筈である。

 完成した芸術は、自然とのかかわりがあって初めて芸術作品となる。自然物である人間や天候という客体無くして主体である芸術は成り立たないと考える。私としてそのような視点で作者「相阿弥」の意図を強く慮る事が出来る。ゆえに、この石庭に「非日常性」を見出した著者や志賀直哉に対し、これらの視点の欠如を感じざるを得ない。

 とまあ、言い掛かりを付けた様な体裁の読後感になってしまった。皆さんもお暇ならセンター試験に挑戦することをお勧めする。ある程度の年齢に達すると問題を解くという意識より、問題を作る側や著者に対する人間としての「ふれあい」のような温かい何かに出会い得した気分に浸れる。今回私として何気に取り組んだセンター試験ではあったが、学生時代には得られなかった「血の通った人間が創造したもの」として対等に向き合えた事は、とても大きな収穫となった。

料理研究(10):「雑煮」と「出産日」の関係 副題:味付けと塩加減 

 同じ出身地の男女が付き合う場合や結婚した場合、料理の塩加減で濃い薄いの問題が発展し喧嘩になることは少ない。だが出身地が違う場合、喧嘩が絶えないのではないか。そういう私の両親は埼玉県出身、私は埼玉生まれの千葉県育ちであり濃い味だ。家内は東京生まれ、東京育ちであるので薄味である。ゆえに喧嘩が絶えなかった。女性との口論で勝ったためしの無い私は結婚後、尖ったツノを家内に折られ薄味に転じた。いや、馴らされてきたのだ。「減塩ペットフード」を喰わされる猫の様に…。

 彼女が出来たばかりの男性は特に、「雑煮」には気を付けなければならない。出身地が違うとその地方独特の「雑煮」が食えて面白い等と、好奇心と驚きが入り混じり味オンチになりがちである。「雑煮」は正月の象徴的食べ物だ。ガキの時、正月に一家団欒で食べた雑煮の味は一生忘れる事が出来ない。歳を負う毎に昔の味を懐古し、その味の再現を強く要求してしまう。自分が自分で無くなる瞬間を作り出す潜在的原因を持ち合わせた恐ろしい食べ物でもある。齢を重ねる毎、実家の味を懐かしがり自然と我が出てくる。中の餅も、完全な姿か崩れた状態かの好みも過去に戻る。男は総じてこれを「お袋の味」と女性を嘲る様に軽い口調で言う傾向にある。

 もし、「雑煮」が振舞われる正月に、DNAに刻まれた好みの塩加減への懐古心が湧き上がった場合どうなるか。その懐古心は「マザコン」とも言えよう。当然、恋人同士や夫婦間では喧嘩になるのである。そうして、その喧嘩を引きずり「姫初め」も儘ならず、結果として10月10日近くに出産をする事も不可能になる。この月の10日前後に生まれた人の家庭は、「雑煮」で喧嘩する事の無い、世間も羨むあたたかい家庭と言えるのではないか。

 私の両親は同じ埼玉県出身で隣町同士である。しかし、「雑煮」の醤油加減で頻繁に喧嘩をしていたと推測出来る。時は昭和35年(1,960年)の正月に話は遡る。約一ヶ月半は喧嘩が原因で口もきかず2月の中頃に仲直りをしたのであった。仲直りの勢いの延長には、11月27日の私の出産があった。私が成人してから母に聞いた話であるが、私は望まれて生まれた児ではなかったらしい。纏綿たる私の悲しみの原因はここにあったのだ。

 父は母に対しお腹に宿るこの可愛い私を「堕ろせ」と言ったのだ。「雑煮騒動」を端緒とし、その結末である勢い付いた仲直りで宿ってしまった私の社会的位置付けを冷静且つ哲学的に分析するならば、「快楽の副産物」が最も言い当てている表現であろう。「ほたて」であれば貝柱。ヒラメであれば「縁側」のようなものである。快楽を助長・促進する華々しくそして雅やかな「大人のオモチャ」でもないのだ。人を気持ち良くさせることも適わず、親に祝福される術も持ち得ない可哀想な存在なのである。

 「アレ破れて 私あり 家晩春にして騒動深し」by(杜甫ホ=トホホ)。私の今の生き様から自身を的確に喩えるのであるならば、俳句として有名な「砂浜や 恋人どもが 夢の跡」の状況下で、使い捨てられたコンドームをエコロジー・ブームに乗って綺麗に洗い、リサイクルしていつでも誰でも使える状態が、副産物としての私に近いのであろう。これは実話だが、かつての西ドイツにはリサイクル・コンドームがあった。洗って人に貸したりはしないものであると思うのだが…。

 とまあ、たかが「雑煮」のカキコミに芭蕉や杜甫まで登場させてしまったヒッチャカメッチャかな週末一歩手前の私だ。筆任せゆえ、タイトルの「出産日」は当然あとづけだ。計画性が無く勢いだけなのでタイトルも副産物を生んでしまう。私の父がこの私を計画性無く勢いでつくったプロセスとクリソツではないか。

 世界各地のご当地スープを旨いと思える塩分基準値は、0.6%~0.8%であると聞いた。体温計のような塩分測定器が三千円位で売られているが私は買えない。家に持ち帰った途端、家内の虐めにあってしまうことが分かるのだ。見つかった罰としてその後益々塩分を減らされ、ヤル気をそがれ廃人にさせられてしまう可能性大なのだ。

「小江戸」川越でポタリング 

 先週の土曜日は家内が友人とコンサートへ出かけ一人であった為、小江戸・川越の街を折りたたみ自転車でポタリングし、そのまま自転車で東京に帰ってきた。その週、書店で見田盛夫著「東京五つ星の蕎麦」を買い、その本を参考にして週末に都内の有名蕎麦屋数店を自転車でハシゴしようと考えた。都内の有名店がある住所を見ると、私がすでに熟知している街が多い。自転車で走る以上、未知の街並みを流したいとの衝動に駆られたので都内近郊編で探してみた。すると、かねてより「小江戸」として有名であるにも関わらず一度も行く機会の無かった埼玉県川越市の有名店が数店掲載されていた。さっそく川越に行き先を決めた。

 当日、時間は既に午前11時を回っていた。台場から川越まで自転車で往復する時間は無いと判断し、お台場の臨海副都心線「東京テレポート駅」から輪行(自転車を折り畳んで電車に乗る)することにした。終点川越駅までは直通の快速があり74分だ。午後12時32分に川越に到着した。初めて降りた川越駅周辺は、都内近郊のお約束であるスーパーと駅とが連結しており川越の代名詞である「小江戸」の情緒は感じられない。

 だが、自転車を組み立ててバスターミナルを出るとすぐ、古い建物と狭い路地が錯綜し徐々にその趣きを感じる事が出来る。果てしなく広がる川越の街並みに高いビルは見当たらない。せいぜい駅前や線路沿いのスーパーや「まるひろ百貨店」が見えるくらいである。まずは昼食を取る為、大通りを喜多院方向に北へ向かい喜多院すぐ裏の手打ち九割蕎麦の蕎麦屋「鎌倉」へ向かった。1時過ぎであったが3人ほど並んでおり約20分待ちであった。

 食後、早速ポタリングを開始した。川越散策マップ西の十念寺から始め、栄林寺→観音寺→本応寺→養寿院→行伝寺→(ここから蔵造りゾーンに入る)→長喜院→「時の鐘」→法善寺→蓮馨寺→東照宮→喜多院→中院と約10km、1時間半のポタリングであった。都内から約50kmと近く都内には断片的にしか無い江戸風情が、ここ川越には色濃く街並みとしての連続として残されてる事に感心した。山形県の喜多方や米沢の街の趣きに近い。埼玉生まれ、千葉育ち、東京在住の私は、何故これまでこの街を知らなかったのかを悔やんだ。川越市が補助金を出し街中に温泉でも掘って観光に力を入れれば、京都・奈良は言い過ぎにしても徳川・江戸繋がりで日光に匹敵する観光地になること請け合いだ。

 最後の中院で時既に3時半。自転車で帰路に着く事を考えている私にとって時既に遅しだ。それでも当初の計画通り頑張って川越街道を南に走り東京へ向かった。いつかは散り行く命を惜しむ私は、街道沿いの歩道を自転車で走った。街道沿いであるが故、個人宅の車庫に入る歩道の部分の凹が多く、自転車のタイヤが細いとハンドルを取られる危険性がある。マウンテンバイク並みの太いタイヤの私は難なく埼玉県をすり抜け、2時間後に東京都へ突入した。自分の車で川越街道を走ることは滅多に無かったので、成増の商店街の人ごみの多さに驚き駅前まで寄り道してみた。都内に入った途端感じた事は、歩道が整備されており車道並みに広いということだ。自転車も楽々と20km以上スピードが出てしまう。このスピードで環七を横切り池袋サンシャインシティーの夜景を目指し東京ドームまでは分けなく走れた。皇居に出て私の事務所のある人形町には7時30分に到着した。

 事務所の車庫に車があったので自転車を畳んで帰ろうとしたが、人形町で博多ラーメンを食べに行った際、喉の渇きにおもわずビールを頼んだのでそれも不可能になった。こうなったら自転車でも酒気帯び運転になってしまうが、近くの江東区清澄白川の銭湯「辰己湯」に行って酔いを覚まし疲れを癒そうと考えた。一時間半程ゆったり風呂に浸かり、酔いも醒めたので台場に向かった。途中、私の夜のホームグラウンドである門前仲町を通った際、これまた普段はあまり飲むことの無いビールが無性に飲みたくなり、馴染みの九州博多の焼き鳥ダイニング「花菜の月」に寄ってしまった。ラーメンといい焼き鳥といい博多繋がりだ。常連も集まり約2時間位、カウンターの椅子に根が生えたように飲み帰路に着くのだが、これまたまたまた酒気帯び運転になってしまうので、自転車を畳みタクシーのトランクに積んで帰ったのであった。折り畳み自転車って本当に便利だ。

 川越市内で10km、川越から門前仲町まで54km、総距離64kmのポタリングであった。否、ツーリングと言っておこう。

公共サービス利用のモラル パートⅡ「NHK」 

 公共サービスでありライフ・ラインと誰もが認識する電気・ガス・水道の料金を未払いした場合、当然の処置として供給を止められてしまう。生死に関わる問題なので止められた方は、あたり前に支払う。ゆえに未払いが然したる問題にならない。宅電(自宅の電話、私は宅電と名付けてみた)は、緊急の場合の準ライフ・ラインとしての位置付けである。実用的な携帯電話が普及するにつれ今や宅電は、ローンや借金の際の信用の象徴と成りつつある為、これも未払い問題は少ないのではないか。

 同じ公共サービスとしての位置付けである「NHK」は、大概の国民にとってライフ・ラインという意識はない。信用の象徴にも成り得ない。国営ではないが「特殊法人」として、郵貯と年金が原資である財政投融資で年間約7千億円の莫大な資金をタダで調達している金食い虫でもある。メディアが多様化し視聴者にとって更に選択肢が広がる昨今、莫大な財政投融資を受け、その上テレビやラジオの受信機の所持者や世帯から、NHK受信料を義務化する事自体時代遅れの観は拭えない。

 民放は1つのコンテンツをNHKのコストの5分の1で制作しているとも聞いた。その民放との比較においても、より膨大なコストが掛かる前近代的経営の見直しの具体策無くして国民が支払い義務化を納得する筈がない。財政投融資と受信料の二重取りは市場の競争原理にも反する。NHKによる一連の不祥事に端を発する受信料の不払い拡大がきっかけで、以後そのような事態を二度と引き起こさない為に、総務省は2007年の通常国会に放送法の改正案を提出した。NHKによる受信料の徴収に、より強い強制力を持たせようと目論んでいる。二重取りの甘い利権にしがみ付くNHKゆえ、未納者や支払い拒否する場合にスクランブルをかけるなどの真っ当な方法は無視し、義務化させ強制的に徴収しようとする魂胆は見え見えである。競わずして全てが欲しいのである。

 官僚や政治家までもがその甘い利権にしがみ付いている時局に鑑みて、受信料義務化へ少なからず傾いていると思った方が無難だ。そうなると、受信機を家に置かない原始的な生活を送る方法しかないと極端に考えてしまいがちであるが、さもあらず。家電メーカーが、NHKを受信できないテレビやラジオを作ればいいのである。これも商品の細分化だ。需要はすでに十分見込める訳であるので、ヒット商品になるに違いない。スキマ商品と言えよう。

 社会的な存在になっている大手メーカーが、お上に背く事が出来ないとビビルのであるならば、ベンチャーの会社が商品を販売しOEMで大手家電に発注すればいい。家電メーカーがテレビやラジオを生産する際、NHKを必ず受信できるものにしなければならないという法律は無い筈だ。一連の不祥事にお灸を据える意味で、未払いを敢行されているNHKファンの方達の問題解決には成らない。そう言う私は大のNHKファンであるので受信料を払っている。何とも矛盾している。「ごめんなさい」なのであった。ま、NHK見なくても死なないのは確かではあるのだが…。タイトルに対して結びが甘くなってしまったが、モラル以前、NHKの体質の問題、それを推し進めると「特殊法人問題」に発展すると考える。

公共サービス利用のモラル 「救急車」「図書館」 

 公共サービスに対するあきれ返るようなモラルの無さが、近年顕著になってきた。特に「救急車」と「図書館」は無料であるが故に問題になり易い。先日1月12日の産経新聞に「溶けゆく日本人 救急車をタクシー代わりに」との記事があった。

 救急車のあきれ返るような利用事例としては、1) 駆けつけた救急隊員に保険証を差し出し、「100メートル先に病院があるから、その子を連れてって」と言って熱のある幼児を指さし、ホームパーティーの準備に追われる主婦 2)「30分後に救急車を1台」という出前の注文まがいの119番通報 3)1日に2度救急車を要請したことを医師に窘(たしな)められ、「税金を払っているのになんで救急車を使っちゃいけないの?」と言い放った人もいたという。「病院で優先的に見てもらえて、しかも(利用は)タダ。こんないいことはない。そう思われているのでしょうか」。横浜市の常陸哲生・救急課長のため息は深い。都では救急出動後、現場でトリアージ(傷病の緊急度や重傷度の判断)を行い、搬送の要否の判断を行う仕組みの導入を検討中。横浜市では119番時のトリアージの導入とともに、医師や市民らによる第3者機関を設置したうえで「タクシー代わり」に救急車を要請する悪質な利用者には罰金を科すことを盛りこんだ条例の制定を目指している。
(SankeiWEBより引用)

 病気や怪我は、個人の主観で軽い重いを主張できるところが厄介だ。風邪をひいたとしても、本人が重病だと言ったら、併発する病気の可能性も多分にあり医師でもすぐには否定できない。この部分を狙って悪質な利用者が増え、更にはリピーターと化す。家族ぐるみで悪質な利用をする場合もあるらしい。病気や怪我における重軽の線引きは、主観と客観が二律背反し誰も判断し得ないのが実状ではないか。東京都の一回あたりの出動コストは約4万5千円とのことだ。重病人や重傷を負った人を優先する為にも、それらの人や弱者への免除の検討を前提に、有料化すべきであると考える。

 図書館では、切抜きや落書き、横線引き、CDのCD-ROMへの差し替え、新刊本の古本屋への売却、無断持ち出し(万引き)などが問題になっているとの事。何年も前から、日本各地で書店での万引きが社会問題になり倒産に追い込まれた書店の事例も多くある。公共施設である図書館は倒産しない。ゆえに潜在化した問題は多数あったが、書店での万引き、書店では起こり得ない犯罪の余波の流れがようやくここに来て顕在化したと言えよう。万引きGメンも置く事はないので、常習犯にとっては格好の網引き場、独擅場(どくせんじょう)だ。雑誌等からアイドルの切り抜きが特に多いらしいが、対策を講じる前に雑誌などは自由観覧できないようにすればいい。あえて置かないようにするのもいいのではないか。

 万引きは世俗的通称であり語調も軽い故、犯罪と認知できない人が多い。刑法第235条の窃盗罪になる犯罪行為である。切抜きや横線引きなどは、刑法261条の器物損壊等に抵触する。これらの犯罪を平然とやってのけられる輩は、万人が自由に閲覧出来、ある意味弱い立場にいる「書籍」を一方的に「イジメ」ていることに気が付くこともないであろう。公共のものを独り占めにして、後に読む人を思いやる欠片も無い極悪非道な奴とも言えよう。

 図書館でここまで犯罪が横行した場合、人の良心に委ねるばかりではダメである。書店のように防犯対策を講じる必要があろう。監視カメラや、書籍の厚みを測る機械、銀行にある紙幣を数える様な機械を導入し、全ての人にではないまでも抜き打ちチェックし、牽制することを考える必要がある。また、発覚した犯罪は警察に通報する「適切な対応」も言うに及ばずだ。

 あたり前のことを、あえて言わざるを得なくなってしまった昨今、マナーの片鱗も無い溶けゆく日本人を被害者が諭すことは不可能だ。被害者である「救急車」や「図書館」は税金で成り立っているので当然、税金を支払っている善良な民にまで間接的に被害は及ぶ。犯罪の定義を分かり得ない「無賃常習犯」、「窃盗犯」、「器物損壊犯」に対しては、「犯罪」であることをしっかりと分からせ、溶ける前に救済することが肝要だ。

プロモーション業界における自社の将来的在り方を考える 

 プロモーショングッズ制作の業界は、クライアント主体の制作スケジュール管理が中心である。グッズが現場に辿り着く経路や、広告会社や現場管理の制作会社等の多数の会社を経由して決定している場合、商品に対する意思統一が諮られていない場合も多くありトラブルが起こりやすい。

 近年の広告会社はクライアントのパートナーとなり、マーケティング・エージェンシーとしての機能が重視され商品開発から参画するケースも多い。そのような開発過程を経て発売された商品のプロモーションも、その広告会社が引き続き参画する事になる。この事実は、商品をクライアントと一緒に商品化し販売促進する反面、売れ行きが良く無い場合は、当該商品の販売解決策でまた儲けるという「二律背反」の構造になる。売れても売れなくても儲かるのである。流通の根本に関わっているのにも関わらず、「流通に蔓延る寄生虫」とはよく言ったものだ。

 当該商品にとって最も効果的なプロモーション手法であり購買動機を高める販売現場での「ベタ付け」や、来店時や一定の金額以上を買い上げた消費者に差し上げる「ノベルティー」等の提案や扱いは、マーケティング・エージェンシである広告会社を、かつての何でも屋である「広告代理店」に逆行させる。今後は、現場のニーズを最も把握しているクライアントの担当者と、ノベルティー商品の企画・製造・販売が出来るメーカーの2社の主導で行われる時代になりつつあると考える。

 商品もマーケットも細分化され、それらのサイクルやプロモーションも短縮され続ける昨今、大手広告会社にとって当該商品に於ける細やかなプロモーションは、その扱いが小額である理由をも含め不可能であると考える。今後の「ノベルティー」は、当該商品の販売時に、クライアントと消費者の2者を同時に満足させ双方に利益をもたらし、且つ又小さいマーケットを、クライアントの立場に立ち対費用効果を熟慮した上に活性化させる目的を持ったモノになる。

 さらに我々、プロモーショングッズ開発に携わる会社の将来的な方向としては、プロモーション対象商品と関連した「ノベルティー」を企画することによって、単なる「オマケ」ではなく「セット商品販売」の概念も生まれ得ると考える。このような意思を強く持ち、具現化する方向で日々知恵を利益に変えていく、妥協の無い努力と忍耐が求められる。

危険な「鍋つゆ」の全貌はコレだ!! 

 今日は快晴だ。6日のニューヨークは、大西洋から暖気が流れ込んだ影響で観測史上最高の22.2度を記録したらしい。チベットでも20度との事。この時期の米東部は例年氷点下になり、雪による被害のニュース配信は日本でもお馴染みである。この天候異常はいつまで続くのか?その異常な天候に影響を受け、春うららな私の性格の異常はとどまる所を知らない。

 あまりにもポカポカと暖かいので、朝一番に有明プールへ行った。ドーム式の天井はすべてガラスなので、「常磐ハワイアンセンター」のようだ。現在名前が変わったらしいがまあいいや。とにかく、南国の島に来ているように燦々と日差しがプールに降り注いでいる。こんなに晴れてりゃ、一発狂い咲いてやろうかと誰でも思えるような「夏まっ盛り」な感じのプールであった。

 狂い咲いた私はパッパラパーと小一時間泳ぎ、スーパーに向かった。

 お約束の「ちゃんこ鍋つゆ」を勇んで買いに行ったのだ。先日ほどの感動は無かったが、せっかく買ったので写真に撮った。


左側からぼ~っとして見ると「エエッ!!」と誰でも驚く、はすに構えた鍋つゆのボトル
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正面から見ると面白味も何も無い。買う気も起こらない。
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ボトルを持つときはくれぐれも「ゃ」を指で隠さないように!
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