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コラム「産経抄」・「天声人語」 両紙の論調を比較する 

産経新聞「産経抄」と朝日新聞「天声人語」の「能登半島地震」について両紙の論調を比較した。

以下、産経新聞SankeiWebより引用
 
 「三歳の坊主が毎日使う日本語はただひとつ『ごちそうさま』」。きのうの「朝の詩」の題は、「ごちそうさま」だった。国際結婚している作者の娘さんがいうように、食事の時のあいさつの言葉が日本語にあって、英語にないのはどうしてだろう。
 
▼向田邦子さんも、同じことが気にかかっていた。水上勉さんとの対談で、合掌のしぐさとあわせて念仏なのだと教えられて、「とっても気が楽になります」と語っていた。
 
▼本人は東京生まれだが、向田家のルーツは、現在の石川県七尾市能登島向田町にある。ただし「むこうだ」ではなく「こうだ」と読む。能登といえば、昔から浄土真宗が盛んなところ。同居していた父方の祖母も熱心な門徒で、向田さんも幼いころから念仏に親しんできた。

▼昭和54年、ルーツ探しの旅に出た向田さんは、現地で父親の少年時代を知る遠い親戚(しんせき)と対面し、先祖の墓参りも果たした。向田さんを何より喜ばせたのは、能登の人たちの穏やかな暮らしぶりだった。日曜の朝、能登半島を襲った最大震度6強の地震は、それをずたずたに切り裂いた。

▼突き上げるような激しい揺れは、道路を崩落させ、家屋を押しつぶした。被災住民の多くは、いまも余震の恐怖にさらされている。能登空港など交通機関の一部が復旧する一方、けが人や倒壊家屋の数はさらに増えた。ボランティアの申し込みが殺到しているのは心強いが。

▼約500年前、浄土真宗を信仰するこの地の農民たちは、近隣の勢力と呼応して一向一揆を起こし、加賀に100年近くの間、自分たちの国を打ち立てた。門徒間の強い連帯感が起こした奇跡といわれている。地域に根づいているはずの、助け合いの精神を今こそ見せつけてほしい。
SankeiWeb 「産経抄」(2007/03/27 05:11) より引用

以下、朝日新聞asahi.com「天声人語」より引用

 能登半島の北部の海岸沿いには、斜面に小さな田が連なった千枚田がある。かつてここを訪れた作家の佐藤春夫は、山にはい上がろうとする緑の波濤(はとう)のようだと述べ、こう詠んだ。〈千枚の青田渚になだれ入る〉(『佐藤春夫全集』臨川書店)。

 青田がなだれ入る渚(なぎさ)から南西の沿岸付近を震源とする大きな地震が、きのう起きた。千枚田のある石川県輪島市や七尾市などでは震度が6強に達し、死者や多くの負傷者が出る惨事となった。

 津波はさほどではなかったようだ。しかし現地からの写真では、家が崩れたり、国道が地割れで裂かれたりしていて、揺れの激しさがうかがえる。

 「能登はやさしや土までも」という表現がある。この地方のおだやかな人情と文化、豊かな自然は、日本の原風景にもたとえられる。99年には春夫が詠んだ千枚田で、駐日外交官と家族らが田植えや稲刈りに挑戦した。

 だが、地上の営みがどれほど豊かであろうと、どんなに心優しき人々が暮らしていようと、そういうことにはお構いなしにある日突然、大地は揺れる。これが、地震という自然災害の怖さと残酷さだろう。今回はたまたま、日曜日の午前中という経済活動がゆったりした時間帯だったが、地震は時を選ばない。

 04年の新潟中越地震で母子3人が乗った車が土砂に埋まり、男の子が救出された現場の県道が開通した。地震で閉ざされていた道がようやく通じる一方、新たな被災地で道が断たれる。地震国の厳しさを象徴しているが、空輸を含む救援の道だけは、断裂も閉鎖もさせないようにしたい。
sahi.com「天声人語」(2007/3/26)より引用
 
 先日3月25日(日)午前9時42分、石川県の能登半島沖の日本海を震源とするマグニチュード(M)6・9の地震が起きた。最大震度が6強で、同県や富山県や新潟県の一部にわたる広い範囲で震度5以上の揺れに襲われ、一人の死者と200人を越える多数の負傷者がでた。本震後、断続的に襲ってきた有感地震(余震)は翌26日午前8時までの間に181回観測された。GPSによる基点地観測によると、地表のずれが最大南西に25cmも移動した地点があるとのこと。

 地震翌日の26日の産経新聞「産経抄」は、北朝鮮への譲歩や「慰安婦決議案」等で揺れる「日米間のわだかまり」がその内容であった。産経新聞「主張」はその大災害を捉えていたが…。それに比べ朝日新聞は、上記「天声人語」や「社説」の両輪において大災害である「能登半島沖地震」にあたりまえに言及した。「産経抄」のコンセプトとしては『「耳かき一杯ほどの毒を盛ることをモットーにしてきた」という辛口の伝統は、今も脈々と受け継がれている。鋭くかつ温かく社会を見つめ、ぶれない視点からの日本の「今」が浮かび上がっている』とある。「いったい、どうしたんだ、産経新聞!」。

 「天声人語」では、地震翌日の紙面で前回の「新潟中越地震」の教訓を的確に引き、「空輸を含む救援の道だけは、断裂も閉鎖もさせないようにしたい」と、災害地外の人達と助け合う救援の前提が必要であると締めた。しかし、「産経抄」は地震翌々日の今日、約500年前の一向一揆を引き、「門徒間の強い連帯感が起こした奇跡といわれている。地域に根づいているはずの、助け合いの精神を今こそ見せつけてほしい」と結んだ。何かしっくりとこないのは私だけか。その前章最後には「ボランティアの申し込みが殺到しているのは心強いが」と、含みを残しているのも気になる。

 500年も前の出来事を教訓にしろなどとは、現実に即していない空絵事だ。代々住んできた家屋が瓦礫と化し、その前に言葉を失い呆然として立ちすくむ被害者の方に、「門徒間の強い連帯感を見せろ」とは、思いやりの欠片も無く言葉の暴力のようでもある。「助け合いの精神を見せ付けてほしい」とは、高校球児等の命の危険にさらされていない人に向かって言う励ましの言葉であろう。「鋭くかつ温かく社会を見つめ、ぶれない視点からの日本の「今」が浮かび上がっている」を概念とした「産経抄」は、「ぶれた視点から日本の「一昨日」を浮かび上がらせた」。

 「耳かき一杯ほどの毒」ならぬ「バケツ一杯の猛毒」を、あろうことか地震があった翌々日に盛ってしまったコラムになった。新聞は一日遅れれば古新聞だ。トイレットペーパー一個の価値にも及ばない。大新聞の使命としては、翌日適宜に論説を発表する必要がある。この大災害が産経新聞一面の「産経抄」に掲載されなかったことは、月刊「正論」をオピニオン誌とする「産経新聞」読者である私にとって大変ショックな出来事である。下衆な勘繰りであるが、大会社である産経新聞は、論説委員のローテーションに土日の出勤が無いのではないかとも考えてしまった。

 そのように批判しても、かつて私の仕事や生き様に多大な影響を与え、新聞・雑誌媒体を連動させる面白さをも与えてくれた産経新聞は生涯読み続けるであろう。いい記事の方が当然多い。私は仕事柄、自虐的にならざるを得ない部分が多いが、反面産経は自虐的論調は少ない。生きる活力をどの新聞より得る事が出来る。このように机上の批判で終始する私自身も情けない。被災現場に飛んでお手伝いすることも適わない。「この度の能登半島地震で被災された皆様方に心よりお見舞いを申し上げます」。


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銭湯の下駄箱 

 先週の24日の土曜日、午前中仕事をして午後から白内障手術で入院している母の見舞いに行った。そしてその日の最後にはまたまた江東区清澄白河の辰己湯へ行った。母は翌日曜日に退院するので、時間の確認も兼ね新浦安の順天堂病院に見舞い、ついでに病院の近く新浦安駅の2~3km海岸方向に行った日本最大級日帰り温泉リゾート施設『湯巡り万華郷』を視察しに行った。

 新浦安駅真横の道を海岸に向かい、行き止まり手前を左折すると右手にすぐ見える。広大な敷地にほぼ平屋の状態で建物がある。派手派手しい看板も無いので、車で中に入らないとそこがスーパー温泉であるのかは分からない。周辺は居住地域であるので、そのような配慮がされていることを理解した。金を払い中に入ってみたいと思ったが、一人では何か不安である。次回にする事にした。

 温泉の無料の巡回バスがその時走って来た。東西線「浦安駅」と京葉線「新浦安駅」前から出ているとのこと。どうせ行くなら、酒でも飲みながら、1400mから湧き上る天然温泉に浸かってみたい。車で行くには惜しいので、「いつかそのバスで行ってみよう」と考え、行き慣れた「辰己湯」へ向かった。先週、せっかく車にワックスを塗ったのに午後から外は雨だ。その雨もディズニーリゾート付近を走っている途中上がった。

 銭湯「辰己湯」近所の駐車場に車を入れ、数分歩いた。入り口で靴を脱ぎ下駄箱を見る。午後5時位であるので50個ある男湯の下駄箱は50%位ふさがっている。「今日も混んでいるなあ」と思いつつ空いている番号を探す。学生時代は、自分の年齢と同じ番号が空いていると何故かラッキーと思ったものだ。それがいまだに尾を引いている。無意識に今の年齢と同じ番号を探してしまうようになった。

 50までしか番号は無い。その番号と同じ年齢まで後4つだ。何故か焦ってしまう自分自身が下駄箱の前にいた。学生時分は、50歳など先の先、21世紀なんぞは鉄腕アトムが生まれたり、20世紀にワープして来たスーパージェッターの時代だ。当時、考えてることも無いSFの世界であった。そんな未来に自分はもう来てしまっている。「100番まである下駄箱を持った銭湯を探さなくては…」と、思い悩んだあげく弱い意志を固めた。

「暑さ寒さも彼岸までと言わんまで」 

 「暑さ寒さと何をか言わんや」と、若い時分はどうでもいい、関係ないと思っていた四季の移り変わりを、近頃は歳なのであろうか、気温だの天気だの開花宣言だの、少しの変化をメディアで真剣に見聞きするようになった。横浜では今日23日に開花宣言があった。冷静に自分自身を振り返ると、鬼忙しさが無いので余裕が出来た分、季節を感じ得ることができるようになったのだろう。生活を圧迫する良くない心のキャパの増大だ。

 「暑さ寒さも彼岸までと言わんまで」鈍感な私は分からない。冬物を脱皮して春物にどのようなタイミングで衣替えするのか、家内に言われるまでいまだに分からない。独身の頃は、人に「それ冬物だね」だの「それ夏物だね」と言われるまで衣替えのタイミングが来なかった。若気が至っていた頃は、衣服にたいする興味がなかった。身だしなみという意識も当然稀有であった。一旦社会に出れば、そのような非常識な事は言ってられない。人格まで疑われる。

 私は元来、体温が人よりも高い。それが原因で寒さには鈍感になり、ひいては暑さや四季の変化に鈍感になってしまったのだろう。自分で衣服を脱いだり着たりして寒暖に対応する調整をマメにすることも無かったのである。しかし、今年は違った。自転車に頻繁に乗るようになり、外が寒いと感じるようになった。ゆえ自転車に乗るときには、ズボンの下に必ず自転車用のスパッツをはくようになったのである。

 それを覚えると、普段も俗に言う「ズボン下」が欠かせなくなってくる。ユニクロで買った股引(ももひき)は今では必需品だ。恋しくて、春分の日を過ぎた今でも手放せない、ならぬ股放せない。よく今までこれをはかないで生きてこれたと、感心する事しかりだ。体重が約6kg位落ちて脂肪が無くなった分、寒がりになったのであろう。加藤茶がコントではいていた猿股(股引の足を覆う部分が短いもの)に世話になる日も近い。

江東区北砂「文化湯」と商売の神が宿る「砂町銀座商店街」 

 作家山本一力さんの著書『家族力』の中に掲載されていたエッセーを読んで、にわか銭湯フリークである私は先日春分の日に早速、江東区北砂の銭湯「文化湯」へ行った。丸八通りの小名木川にかかる丸八橋のたもと、丸八橋南詰交差点を東に曲がってすぐ右側にある。交差点にあるファミリーマートの隣にはコインパーキングがあり、丸八通り沿いにも白枠の駐車スペースがある。仙台堀川公園を東に少し進めば荒川の土手がある。東西に行きかう車道沿いは、一戸建ての住宅と団地が混在しており私の故郷千葉を想わせる静かな佇まいだ。錦糸町行きのバス停もあった。

 文化湯の建物は通りに面した部分が側面である。廃業した銭湯であるかのように見えるが、右横路地を入ればすぐ入り口がある。奥には20台以上は止められる駐輪場も完備されている。男女共用の入り口を中に入ると番台はなくフロントがある。430円を払って右側の男湯へ入った。風呂は、高圧で噴出するマッサージ湯、低周波湯等バリエーションに富んでいる。更に外には大きな露天風呂もある。これが売りなのであろう。銭湯は、日や時間によって刻々と湯加減や客の混み具合といった状況が変わる。2回以上行かないと本当の良さは分からない。その日は夕飯の時間までに帰るつもりでいたのでゆっくり出来なかった。今度、早い時間に自転車で来よう。

 銭湯を出た私は車を駐車場に止めたまま付近を少し散策した。一歩路地裏に入るとそこは「The東京下町」だ。小さい入り組んだ路地には低い住居が間隔を置かずに立ち並んでいる。路地にせり出している玄関先や窓の下には、手入れの行き届いた季節の鉢植えの花が咲いている。人が住んでいる懐かしい匂いがある。赤提灯の小さな居酒屋も数十メートル間隔で点在する。近隣の住人と触れ合う機会が無い住居に住み慣れている私にとって、下町の人情や情緒は異文化に映る。その分気楽だが、少し憧れもある。散策後、すぐに車に乗って帰宅した。

 帰りすがら、少し南下した場所に位置する砂町銀座商店街入り口の横を通った。商店が一本の細い道の左右に立ち並び、商店街では日本で最も成功している商店街と聞いていた。地方のシャッター通りとは全く縁が無い。それだけあってか、その通りの混み様は正月三が日の参道のようだ。昼間、自転車で通ったことがあるが、自転車を降りない限り通り抜ける事は不可能な程混んでいた。お惣菜は特に安い。ハムカツは3枚で100円であった。おでん、焼き鳥、魚屋の名店が立ち並ぶ。スーパーも百均もある。小売の業態は違えども毎日が戦争であろう。小さな店は一つの特徴を強く消費者にアピールしない限り生き抜く事は不可能である。

 その集客力の凄さに圧倒され、商店街をゆっくり見たいと思い車で来たこともある。明治通り沿いの砂町商店街入り口には、なんと駐車場もある。こうなると、砂町銀座商店街一本の通り約700mが巨大スーパーとして機能している事になる。スーパーのそれぞれの売り場に該当する個人商店は生活をかけて商いをしている。スーパーはその良さもあろうが、活気が違うのは当然であろう。命がかかっているのである。約700m弱を値段や品質を調査しながら一旦行き切り、そこで今日の献立や買い物を考え、また折り返し駐車場に戻りながら買い物をするという懸命な金の使い方が出来る商店街なのである。往復すれば約1.4kmであるので、とてもいい運動量になり当然腹も空く。

 この活気がある商店街は、まだまだ発展する要素がいくつかある。都内に住んでいる自転車やウォーキングが趣味である人に街自体をアピールすればいい。専門雑誌に広告を出すのも手である。荒川のサイクリングロードも近いので、途中でコースを少し変更すればここの熱気を味わう事ができる。旅行客には、江東区のホテルに散策案内を置いてアピールすればいい。全長700mの商店街は、日本広しと言えどもなかなか無いのではないか。浅草浅草寺近くも一本の通りでこれだけ長くはない。三ノ輪もしかりだ。

 または、区外から車で来た人の為に、カートサービスやポーターサービスが考えられる。入れる器が大きければ人はその分買ってしまう。車で帰るので、その器に合わせたカートは十分に販売促進に繋がる。カートサービスは既にありそうな気もする。じゃあ、年配のお金持ちを相手に、ポーターサービスもいい。重いのが理由でたくさん買うことを渋る人もいる筈である。あとは、大きい駐車場を確保してシャトル・バスか。スーパーに負けない対策としては、こんなところであろう。

 駅から少し離れているところが難点だ。東西線は「南砂町駅」、都営新宿線は「西大島駅」がもっとも近い。駅が無いのによくここまで発展したと思う。商売の神様がこの砂町銀座通りの東西約700mに亘って宿っているのであろう。

 店舗としてお惣菜屋さんが立ち並ぶ数であったら、ギネスブックに登録できる可能性もある。海外でもありそうだが、ほとんどが露天商の集合体であろう。私も都内の様々な商店街を見てきたが、ここはそれらと全く違うのである。そのように稀少な商店街であると感じた。珍しいと思うがゆえ、また行ってみたくなるのである。私のように思う人は都内に多く在住している。それらの人々の潜在需要をいかに掘り起こすかが肝要だ。ま、これ以上混んで忙しくなると困るのであるならば別だが…。

出張時の出来事(7):中国山東省煙台市 

 2004年4月2日(金)、某アーティストのコンサートグッズ製作の工場確認と撮影用サンプル持ち帰り手配の為、中国山東省煙台へ出張した。韓国ソウルを経由して中国煙台に入る。ここ煙台市は2年前に上海から青島空港経由で行ったので2回目である。人口約600万人、山東半島東突端の威海の西に隣接する。威海は日清戦争時、李鴻章の北洋艦隊の基地があった威海衛の現在の名称である。日清戦争に最も関係深い日本を含めた三国とその主要都市を巡る出張になった。このような出張は、私も歴史の延長線上に組み込まれたとの実感が生まれ感慨深くなる。
 
 また山東省は、第一次大戦後の1915年5月9日、日本が対華21か条要求を当時の中華民国の袁世凱政権に突き付け、ドイツが山東省に持っていた権益を日本に移譲することを承認させている。いまだに中国のカレンダーに、5月1日から一週間の連休後の5月9日は「国恥記念日」と書かれている。韓国も1919年3月1日日本植民地統治下で起こった万歳事件(三一独立運動)は三一節といい祝日で、1945年8月15日の日本の終戦記念日は光復節でこれも祝日である。この両日ともにソウル出張に重なった事がある。当事者の国にいる私はとても肩身が狭かった記憶がある。

 グッズに使うパーツを軽量化する必要上本体にアルミを使い、表面のコーティングは黒のアルマイト加工を施す事になった。アルマイト(和製英語 alumite)は、アルミニウムの表面を酸化させ,コーティングする技術の総称。陽極酸化処理とも言う。アルミニウムの耐食性、耐摩耗性の向上、及び装飾を目的として行なわれる。その、コーティングを酸化皮膜と言う。このアルマイトは、日本の技術で1929年に理化学研究所で開発された。当時アルマイトは登録商標(商品名)であった。アルミの表面に赤や黄色の着色が施され、下地アルミのシルバーが色下から透けて見えるコーティング手法である。(アルマイト説明は、ウィキペディアより引用)

 当初、グッズすべてを中国で製作する予定であったが、このアルマイト加工を中国国内で出来る工場を知り得なかった。ゆえにグッズすべてを韓国のメーカーに依頼し、アルマイト加工するパーツは、韓国で生産した後中国に持ち込む事にした。日本の基本的な技術はすべて行き渡っていると思っていた韓国であったが、アルマイトの黒に関しては難しいことが後で分かった。日本のメーカーに尋ねると、日本においてもこと黒のアルマイトは難しいらしい。すでに、パーツの金型は韓国で作っていたので納期優先を盾に客を説得し、アルミパーツを単に黒の着色にする了承を得た。

 韓国のメーカー担当者とソウル仁川空港で落ち合い、その足で中国煙台行きの飛行機に乗った。煙台空港は、日本の地方の空港と同じ小さいたたずまいで、南方のリゾート地のようにソテツの木が空港外から中心街に向かう道沿いに植樹されていた。ソウルから約一時間なので、ゴルフに来る韓国人も多いらしい。午後3時頃には煙台市乳山の工場に到着し、すべては順調であったのでただ立ち会うだけであったが、すべてのチェックは夜9時までかかった。

 翌日の夕方に、撮影サンプルが出来上がる手配をしたので、翌土曜日は朝から煙台の工場を視察に回った。韓国のメーカーのアテンドなので、韓国出資の工場か現地の工場でも担当者が朝鮮族であるかのどちらかである。現地のコミュニケーションは、中国の朝鮮族と韓国語で会い通じる韓国人はとても有利だ。このことも、日本が韓国を併合した後、満州に多くの朝鮮人が来た事に原因がある。仕事であってもすべてが歴史にまみれている。過去の歴史的な事実を直に感じる。

 翌日曜日は、メーカーが別の仕事で動く必要があり、その内容に興味があったので同行させてもらった。午後からは、煙台の観光スポットを巡り、最後に渤海に面する整備された砂浜に行った。前回煙台を訪問した時は、海岸沿いのリゾートホテルであったがゆっくり出来る時間が無かったが、今回は日曜を挟んだのでこのような時間が持てた。工場で出来上がった撮影用サンプルを引き取り、早めの夕食となった。翌月曜日は帰国する日である。朝8時45分ソウル行きの飛行機なので、7時にはホテルを出なくてはならない。

 月曜日の11時にはソウル仁川空港に到着した。成田行きの飛行機の時間は午後6時位だ。たっぷりと時間はある。昔の金浦空港はそれこそ100回以上使った事があるが、この新空港は今回が始めてだ。ならば、広い空港ビル散策してみようと考え隅から隅まで歩き回った。途中、昼飯にハンバーガーを食べた。それでも時間はある。サウナがあれば仮眠して時間を潰そうと思いついた。ナイス・アイディアである。

 と思ったその矢先、携帯電話が鳴った。日本からである。上海を今日出航する船が2日遅れるとの電話であった。そうでなくても日本での納期はギリギリの物件である。慌てて上海に電話をかけ、日本の輸入貨物引取りの会社にも確認し一時間は話した。船会社の都合でどうしようも無いらしい。間に合う可能性は50%位であった。客に正直にそれを伝えたところ約1週間納期をサバ読んでくれていたので全く問題ないとの事。

 このauの国際電話代だけで後日の請求書を見ると、2万円くらいであった。途中、バッテリーが切れたので、公衆電話のカードを買ってかけたので更に金額はかかっている。現在は分からないが、当時ソウルではボーダフォンの国際ローミングサービスは無かったのでauが必要であった。出張先で困らないように、auとボーダフォンの二丁拳銃にしていた事が幸いした。が、客に電話をしたら一発解決した。客に聞けない事もある。金の事は納期の二の次である。こういう無駄に思える事も多くある。だが、結果オーライ全くを持って僥倖だ。

 まだ、午後一時であった。空港地下街にサウナがあることを聞き、地上の派手な商業施設とは異なる地味な地下街に入った。空港関係者が主に使うのであろう。普通の食堂や散髪屋が数軒並んでいる。建物自体が新しいので気付かなかったが、通路の照明も節電され暗い。サウナを見つけたので入った。たしか8000ウォン位であったか。日本円で1000円位だ。

 更衣室は木で出来ピカピカに磨かれた床であった。すぐに浴槽とサウナがあるのだが、仮眠室は一切無かった。日本の銭湯と変わらない。寝て過ごす計画は頓挫した。地下にあるので何故だか気持ちも萎える。風呂に浸かりながら次の手を考えた。「そうだ、ホテルのサウナに行こう!」と、思うや否やすぐにそこを飛び出した。

 1階に戻りホテルの案内所へ向かった。宿泊するわけではないので、どうせなら五つ星のハイアット・リージェンシーホテルにしようと案内所でシャトルバスの乗り場を尋ねた。13B出口にあり約30分おきに出ているとの事。すぐに来たシャトルバスに乗り約5分でホテルに到着した。りっぱなホテルである。

 フロントでトランジットの待ちである事を説明し、サウナに入りたい旨を伝えると女性担当者は一瞬戸惑った。中のマネージャーを呼び説明していたので、私から仁川空港は初めてであり今度韓国出張の際にはここに宿泊すると話してみた。マネージャーはニコニコしながら、3万ウォンでどうかと、私に聞いた。即OKしウォンを持ち合わせていなかったので、カードで精算した。

 普通、ホテルのサウナは宿泊者以外も多いはずである。サウナだけと言った私を躊躇した理由はどこにあるのか。入って理解した。サウナはジムとプールに併設されているもので、サウナがメインでは無かったのだ。当然、仮眠室も無い。ジムもプールも使っていいと言っている。しかしながら、水着も無くトレーニングウエアーも持ち合わせていない私にとって、そのメインのどちらの施設も使えるものでは無かった。

 怪しげな三ツ星以下のホテルにしないと、本当のサウナは体験できないのであろう。これで学習した。今後は身の丈に合ったホテルを選ぼうと。明るく綺麗なサウナであったが空港のサウナより小さい。次々とジムで汗をかいた客たちが入れ替わり立ち代り入ってくる。落ち着かないのですぐに出た。

 その後、ホテル一階のコーヒーショップでコーヒーを飲んで時間を潰した。4時頃、空港へ向かうシャトルバスに乗った。欧米人だらけである。数時間後、無事成田へ到着した。私として韓国の新空港はこのように学習途上だが、中国国内線のトランジットはとてもいいと学習している。空港から程近い場所に必ずサウナやマッサージがある。反面、中国大都市は不便だ。上海浦東空港でも時間調整の為、マッサージを探した事がある。辿り着いたのは駐車場内の殺風景な建物にあるマッサージであった。

 これらの行動で分かるように、私は待ち時間をゆっくり本を読んで過ごす事が出来ない。常に行動を起こし探検して学習する。小さいながらも世界地図に自分が歩いた軌跡を残したいのだ。サウナやマッサージなどの気持ちいい系・受身系で、嫌な仕事や自身のアクセスのタイミングの悪さをとことん忘れ、いい出張先であったとの思いをさらに加速させ熟したいのである。

秀逸なる「産経抄」 

以下、Sankei Web 「産経抄」より

 蜃気楼(しんきろう)の「蜃」とは、大はまぐり、もしくはそれに類した化け物の意味だという。昔の人は海の向こうに山や船、建物などが浮かぶのを見て、海中の大はまぐりが吐きだす気によるものだと考えたらしい。その豊かな想像力には感心させられる。

 ▼証券取引法違反に問われたライブドアの堀江貴文前社長は一貫して無罪を主張した。そのため弁護側は最終弁論で「事件は検察官らによって作りあげられた蜃気楼だ」と、声をはり上げた。検察という「大はまぐり」が吐きだした幻想に過ぎないということだろう。

 ▼確かに検察側が描いた事件の構図は、元側近の宮内亮治被告の供述がよりどころとなっていた。もしそれが認められなければ、文字通り蜃気楼のように事件は消滅していただろう。だが裁判所はその供述や証言をほぼ全面的に信用し、厳しい実刑判決を言い渡した。

 ▼堀江被告はただちに控訴したから、蜃気楼か否かの論争はまだ続きそうだ。だが、公判を通じて明らかになってきたことがほかにもある。当時のライブドアの仕事や、「時代の寵児(ちょうじ)」といったその称号こそが蜃気楼のようなものではなかったか、ということだ。

 ▼自らの企業イメージを上げることで投資家からカネを集め、それで別の企業を買収する。その手法は「虚業」でしかなかった。「覚えていない」や「知らない」を繰り返す法廷での態度から「時代の寵児」がいかに作られた「虚像」であるかに気づいた人も多いはずだ。

 ▼むろん堀江被告やライブドアのことだけではない。バーチャル(仮想現実)化が急速に進む社会の反映なのだろう。そういえば、ツボミに触れれば経験で分かりそうなものを、コンピューターに頼ったばかりに間違えた桜の開花予想もあった。

Sankei Web (2007/03/17 06:20) より引用


 先日の土曜日の朝、産経新聞の一面コラム「産経抄」を読んで感動を覚えた。「産経抄」は、「執筆を担当してきた不屈のコラムニスト、石井英夫が『耳かき一杯ほどの毒を盛ることをモットーにしてきた』という辛口の伝統があり、今も脈々と受け継がれているとのこと。鋭くかつ温かく社会を見つめ、ぶれない視点からの日本の「今」が浮かび上がっている」との解説がある。

 冒頭から「蜃気楼」の解説があり読み手をグイグイと引き込む。「昔の人は」とあるが、日本の蜃気楼は富山湾で春に見られるものが有名でありつい日本人と考えがちだが、出典は史記(天官書「海傍蜃気象楼台」]からであるので「中国の人」が正しい。この媚びない書き方も産経らしい。「昔の中国の人」と事実を書いた方が漢字の起源が分かり学究的な雰囲気の論説になるとも…。

 日本と中国の歴史の長さを比較すれば、中国は倍以上の歴史があり文化がある。表意文字である漢字は、日本に伝来する以前に中国においてはすでに出来上がっていた。その漢字を作り出す創造力と漢字が表す豊かな表現力に圧倒され、日本人が尊敬の念を持ちつつもつい無断拝借してしまったのだろう。と、某新聞風に書き足すとこうなる。ここまで産経は当然書かない。

 検察側が、宮内被告の供述を元に描いた事件の構図が、「蜃気楼」的か否かの論争が長引くほど、空気の密度の違いによって光線が屈折する本来の「蜃気楼」の現象においては、時代背景や世論が急速に変化する今日、更に被告と検察当局の温度差も加速することであろう。また今後の蜃気楼論争の結末が、世界で通用するとも限らない。

 世界的な証券市場の信用担保や円安傾向維持の為、諸外国の圧力も考えなくてはならない。実際に米国では、この事件と同等の判決では、懲役期間が約10倍であると聞いた。海外投資家の円キャリートレードによる投信を考えると、更なる株式市場の透明性を求める行為自体が円安維持にもつながる効果もあり、圧力をかけてくる場合も十分考えられる。

 今や堀江氏は金にならない。日興コーディアルは、問題は起したが今後も金になる。単純明快な欧米人の駆け引きを含めた考え方を推測すれば、堀江氏をスケープゴートとして自分に利がある展開を考えるはずだ。そのようになると、日本の立法・司法・行政の三権も「蜃気楼」になる。否、日本自体が「蟻地獄」の横に建つ「砂上の楼閣」になる。

 日本は、バーチャル化が促進する様々な社会のルールでさえ、国内で確立させる事が容易で無い国になってしまう危険性もはらんでいる。グローバル・スタンダードという大義名分の下、米国の判例を加味するような内政干渉を受けることにもなろう。ワシントンD.C.の桜の開花予想は、3月24日とのこと。きっと、既に日本で起きた問題を学習済みの米国の予想は的中するはずだ。

 などツラツラと、とっても美味しいオカズの産経抄に寄生虫のようにはり付き、チュウチュウとその旨いエキス吸う私だ。この日の産経抄は抜群にいいと思えた。時事問題を左右に切り返すハンドルさばきと、論評の盛り上がりに応じて巧みにハンドル横のコラムシフトで繰り返すギアチェンジ。全体的に読み易くテンポがあり、読者を引き込んでいく。桜予想を皮肉った件は、エンジンブレーキをかけた様な滑らかさでコラムを締め括っている。耳かき一ぱいほどの毒は、後から更に効いてくる。何度も何度も読み返した。

女子校生に市松の不安 「市松模様VSルイ・ヴィトンのダミエライン」 

市松模様(いちまつもよう)とは、格子模様の一種で二色の正方形(または長方形)を交互に配した模様である。江戸時代に歌舞伎役者、初代佐野川市松が舞台上で白と紺の正方形を交互に配した袴を履いたことから人気を博し、 着物の柄として流行したことから「市松模様」・「市松格子」・「元禄模様」などと呼ばれるようになった。 そのため、家紋や名物裂など江戸時代以前から存在するものは石畳模様と呼ばれる。

フリー百科事典ウィキペディアより引用)

 
 先日仕事で営団地下鉄「半蔵門線」に乗っていた時のこと。女子校生2人が車両のイスに張られた市松模様のブルー系生地を見て「ねえねえ、何子、このイスの生地、ダミエっぽくネェ?(尻上がり口調)」と言った。その娘の友達はすかさずこう答えた「パクってんじゃねえよ!ってカンジ~(語尾伸ばす)」。あまりに大きい声で2人が会話していたので、周りに聞こえ皆も私も「クスッ」と笑った。彼女達に、パクったのはルイ・ヴィトンである事実を教えてあげたかったのは私だけではなかろう。

 ルイ・ヴィトンのダミエラインは、モノグラムより前の1888年にデビューし日本の市松模様にインスパイアされ作り出された話は有名である。その8年後である1896年にデビューを飾る「イニシャルの頭文字の組み合わせ」の意味である圧倒的人気のモノグラムも、日本の家紋がヒントになっている。創業者ルイ・ヴィトン氏のイニシャル「LとV」に、星と花を組み合わせ、1896年に創り出された。ついでに過去、女子高生同士の会話で笑えたものを紹介する。A子:「ビトンってどこ製?」 B子「ハワイじゃネェ」。さすが、ルイ・ヴィトン。女子高生の話題の中心になる。

 古代の日本文化は中国・韓国等の大陸文化の影響を強く受けながら貴族社会を中心に吸収・消化された。10世紀には、日本の風土や日本人の人情・嗜好に適った、優雅で洗練された独自の文化(国風文化)が生まれた。かな文字の発達やそれに伴う和歌の発展が国風化を最も象徴する。それらに平行した着物や家紋等の紋様を中心とした意匠の発展は、易姓革命で天下を統べる民族自体が変わってしまう中国においては、搾取・継承はあっても、世界中のどの国の人が見ても、熟成された結果としての普遍的な意匠には成り得なかったのではないか。日本文化は中世を経て、近世である江戸時代、鎖国により更に熟成に磨きがかかる。

 明治維新が起こり開国を経て、世界が日本に入ってくる。日本は幸運にも、四方を海という天然の堅固な要塞で囲まれた島国で、その東側には太平洋があり他民族に蹂躙され難い国であった。四季にも恵まれ、折に触れて起こる様々な感情や、感情を誘い起す気分や雰囲気を持った情緒纏綿な様を、日本文化として連綿と引き継ぐことが世界中のどこの国よりも可能であったのだ。古来より天皇家を戴く独自の文化の中で育まれたデザインである。デザインが持つその深い意味や、堆積され続け文化の重みを継承しているデザイン(意匠)に、フランス人であるルイ・ヴィトン氏が惚れ込んだのであろう。世界で最高峰のブランドに影響を与えた事実は、日本人として名誉なことだ。

Suica(スイカ)からPASMOへ 賢い利用法 

 電車カード・電子マネーとして利用できるJR東日本が発行するSuicaは、3月18日にサービスを開始するパスネットが進化した非接触型ICカードのPASMO(首都圏ICカード相互利用サービス)と、その乗車区間での相互利用が可能になる。関東の民鉄・バスに、この2つのカードのどちらかさえあればすべて乗れるようになる。とても便利だ。

 2年前まで私の仕事での移動区間は、パスネットとSuicaさえあればほとんど網羅する事が出来た。手間要らずなので、無くなればチャージしたり買ったりしていた。あまりにも便利なのでそれだけで満足していたが、ある日ふと自分が毎日頻繁に利用している交通手段は、新都市交通ゆりかもめと都営と営団地下鉄の3種類であることに気付いた。

 回数券のように、パスネットとSuicaには買った金額以上の割り増しサービスは無い。都営や営団は、基本料金の170円と160円の回数券を購入すれば、10枚プラス1枚が付いてくる。1,700円で都営の基本区間の回数券を購入すると1,870円分になり170円得した事になる。10%の割引まではいかないが、9%近い割引になる。これは、日々地下鉄を利用する人にとっては大きい金額である。

 それに気付いてからは、それぞれの基本区間の回数券を買って、それ以上の場合は精算機に行きパスネットで精算するようになった。30円か40円が精算してパスネットから引かれるので、裏の印字スペースにも限界があるので、1000円分のパスネットが丁度いい。3,000円であると印字が納まらない。

 特に新都市交通ゆりかもめの回数券は、区間料金の10回分の金額を払うと、なんと2枚もプラスされる。私の場合は新橋まで310円なので620円も得になる。これはデカイ。酎ハイは確実に一杯は飲める。吉牛だったら2回弱行ける。松屋の牛焼き肉定食が食える。

 ま、回数券は期間の限定があるので、頻繁に利用する事を前提として購入しなければならないが。私として今後、それらの非接触型ICカードは精算用か、たまにしか乗らないバスなどに利用し、それらのカードの手軽さに負けないように頑張るつもりだ。とかなんとか偉そうなこと言っちゃって、「だったら、酒を毎日飲むのを止めろ!」と、皆から強いお叱りを受けそうなカキコミをしてしまった。御免なさい。

日本橋人形町「玉ひで」の「親子丼」が何故食べられないのか 

 私の事務所がある人形町には、親子丼を日本で初めて創案した「玉ひで」がある。地下鉄半蔵門線の駅に向かう時はいつも、その店の横を通ることになる。昼食時、店入り口から果てしなく続く大行列は、地下鉄日比谷線の出入り口まで続いており、この店の最も効果的であろう目印と宣伝になっている。昨日も客先から戻る時、午前10時50分にその前を通った。この時間帯は意外と人は少なく駅までは届かない15人位の行列であった。

 なんでもこの「玉ひで」は宝暦10年(1760年)、初代が将軍家に出仕するかたわら軍鶏(しゃも)専門の店として創業し、現在は8代目で約250年も続いている老舗とのこと。商売としてこれ程まで長く続いている店や会社で思い当たるものは三越くらいか。(越後屋呉服店(現在の三越)は、三井高利が江戸本町一丁目に創業したのが1673年。駿河町に移転して三井銀行・三井物産の創業となる両替商を始めたのは1678年)

 吉原炎上の吉原は、明暦の大火(1657年)までは現在の人形町であった。現在の吉原ではない。ゆえに人形町には今でも大門(おおもん)通りのような当時の名残がある。吉原はこの大火をきっかけとして、現在の台東区へ移された。このヘェ~は最近知った。かつて、「運転手さん!大門から入って下さい」と、ナビかましていた私はそのような縁も多少あり、この地を事務所に選んでいたのかと自分の潜在意識(下半身にある折れそうなアンテナか?)の凄さを知った。

 おっと話が飛んでしまったので戻そう。人形町に来て6年以上になる。以来ずっとこの行列を見て「いつかは大立者になってこの行列に並んでやる!」と心に誓い6年経ってしまったことになる。この店の五代目が明治時代に親子丼を創案した。15年以上前の夜、この店が有名であることを知らずに入り軍鶏鍋を食べた記憶がある。飛び抜けて旨かったという記憶は無い。その時は、親子丼が有名であることも知らず、高校時代の先輩に連れられて来たのである。

 私がいう「大立者」の意味は、「時間と心と金に余裕がある人」である。例え事業が大成功して金持ちになっても、忙しく暇がなければここの親子丼は長時間並ぶ故食えない。心に余裕がなくせっかちであると、行列に並ぶことも儘ならない。当然、金が無ければ無銭飲食で捕まってしまう。この三点を私は生涯、満たせない軍鶏(オヤジギャグ解説:しゃも→かも)知れない。それゆえ、その行列に並んでいる人を見て、ひがみ嫉妬し性格が悪くなる時もたまにある。

 そんな時に考えることはこうだ。「この長い行列に並ぶ営業マン全員を、彼等の会社の社長にチクってやろうかなあ」と。大行列になっている程、世の中で何人の社長が泣いていることかと。この事実を社長は知らない方がいい鴨知れない。知ってしまったら即営業会議だ、日報を分単位で提出しろ、と、血圧が赤丸急上昇すること間違いない。ストレスが溜まり死に至る。大手の会社の営業でノルマを既に達成している人なら大丈夫か。

 偶然、とある社長ブログを見た。その社長さんがここの「親子丼」を食べた時の事が書かれていた。この人は「時間・心・金」の三点を満たしている人であろう。並んだ事が無いのでどれ程店内に入るまでに時間がかかるかは定かでは無いが、一時間は待つであろう。一時間待って店内に入りオーダーして待って食べて、早くて1時間半位であろうか。普通の事務職は、昼休みは一時間だけなので無理だ。この会社の営業マンは社長ブログをきっと見ている。また社長が来ることを恐れ、行列に並ぶ事はたぶん出来ない。

 「いつかはクラウン」のような「いつかは玉ひで」だ。あの行列を見て並んでいる人を妬む反面、「死ぬ前一度食いてえなあ」と思うことしきりである。もし、私が行列に並んでいるのを見た時は、私に会える最後だと思って欲しい。三点すべてが無い私は、汗をかいた右手の握り拳の中に1円も含めたたくさんの硬貨計800円を握り締めている筈である。「最後の晩餐」ならぬ「最後の昼食」なのであろう。きっと…。

「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ万歩計」 

 数学は最も嫌いな学問であるが、実績数字を目で見る事は大好きである。特に車や自転車を自分で走らせ距離を計測し、その実績を確認する事に無上の喜びを感じる。万歩計で歩数を計測する事も好きである。営業マンである私は、頭で稼ぐ事より足で稼ぐ事に未だに重きを置く傾向にある。ゆえに今日の足跡とその歩数が将来どのような売上に直結するのか、その相関関係と時期による変数らしき何かを感じ取る上で万歩計を活用する機会が昔から度々あった。

 足跡と歩数の計測を含めたビジュアル化のうち、歩数は万歩計で数値化されるので簡単だ。足跡(訪問実績)を確認する方法は以前私自身で考え試したことがある。地下鉄路線図の白地図上で、自社と客先のある駅を直線で重ならないように結び、日々黒インクで埋まっていく白地図を見ることである。過去の週や月に遡って比較する事が出来る。パソコンでもいいものが出来るであろうが、足で稼ぐ事が基本であるのでアナログである事にこだわりたい。この白地図は、未だ完成の域に達していない。誰か都内の駅入り白地図を、線が引き易いデフォルメした地図に描き換えてくれないだろうか。これぞ正真正銘の「戦略マップ」になる。

 ま、この白地図は人が見るものでは無い。白地図作成はイラストレーターの作業に長けている人であれば簡単に作ることが出来る。一方の万歩計は、そのように簡単に作る事は出来ない。当初、市販の万歩計を買ってくればいいという簡単な話では無かった。万歩計を腰のベルトに付ける事はとても「カッチョ悪ッ!」と思っていたからだ。実にオヤジクサイ。’80年代ポケベルをベルトに付けてます、の様な四半世紀前からプラザ合意を経て、低金利、バブル突入のような異臭を放つ。薄型の万歩計を作れば、ベルトと腰の間に隠せて「カッチョイイ」(←もっとクサイ)のになあと思ったものだ。金型代等コストはかかるが私のように見え張ってるオヤジ達は多い筈なので、作ればナリソレ確実な需要は見込めるのではないか。

 今持っている万歩計を使い、人から見えない所に付けられる機能があればいいことをある日悟った。最初の考えは、ズボンの裏側に付けられるベルト状の格安なアタッチメントを作り、ベルトの一方に万歩計のクリップを入れる穴を開けそこにそのクリップを挟み、もう一方には安全ピンを付けズボンの裏側に固定する。そうすれば、今持っている万歩計でも使えるので便利だ。単価は安く儲かるものには成り得ない。その次に考えたのは何も使わないバージョンだ。ジーパンの前ポケットに万歩計のクリップを表にしポケット口上部に出して挟み本体をポケット中に吊るす方法だ。腰に付けるほど目立たないが、万歩計である事は一目瞭然だ。そのように日々智恵熱を出しながらも考え抜き、ポケットに入れる方法は同じで更にいい方法を考え付いた。その方法とは…。

 定期入れサイズの透明クリアケースの一辺を万歩計のクリップで挟み、それをポケットに入れるだけという方法だ。ポケットの袋は底辺が水平であり、そこに長方形のクリアケースを入れその辺が当たるので、その反対の辺に挟まれた万歩計は水平に保つ事が可能になる。完全にポケットの中に入ってしまうので、外から見えることも無い。これを発見した瞬間鳥肌が立ち、「スゴイ発見だ!」と、自分の才能に驚いたものだが、このように書き込んでいる自分は今、何故かとってもつまらない。読んでる皆の方が、もっとツマラナイのであろう事を今ようやく発見した。こっちの発見の方が、独善的で無いとても思いやりのある発見か。
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