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「人材監査法人」の必要性 

 今産経新聞で『溶けゆく日本人』という特集が組まれている。今回は「孤独な職場 成果主義…責任回避する上司」であった。以下はその記事の抜粋である。

 成果主義を導入し組織内の上下間の意思疎通、信頼関係が希薄化した結果、近年頻出するようになった上司の常套(じょうとう)句がある。部下から助言を求められた際の、「その仕事は任せたんだから、やりたいようにやりなさい」という言葉である。
 聞こえはいい。だがその多くは、的確な指示やアドバイス、適切な関係構築ができない自分の「無能さ」を悟られないようにするために発するケースが多いという。表面上の上下関係は維持したい、一方で、指示したことによる共同責任は負いたくないという思いが潜む。
 企業内研修に長年携わってきた今井さんによると、結果として招くのは部下の不信、士気の低下だという。そして、関係がさらに希薄化するという悪循環を起こしている。責任を放棄する上司が増える背景にあるものは? その1つとして、今井さんは、広がる「成果主義」を挙げる。
 「成果主義では、個々の能力が問われる。だから、部下は無理をしてでも期待に応えようとする一方、上司は(部下の監督責任は問われても)『連帯で責任を負う』と言わずに済むような体質を育てている。成果主義とは、組織の上に行くほど都合のいい制度なんです」
(Sankeiwebより引用・抜粋)

 日本の場合、大きく社歴が長い会社ほど成果主義は社員にとって厄介である。上司が学閥と年功序列の恩恵を受けてその地位にいる場合、部下に対する指示が儘ならないのはあたり前であろう。仕事に対する認識がバブル崩壊後、「稲作」から「狩猟」に100%変わってしまった今の日本では、あたり前に降って来る仕事を、こじんまりとそこから個人的にはみ出ないようチームでこなす時代は終わった。その後の経営者にとって最も都合いいシステムが成果主義と考える。

 欧米の会社や日本の零細企業は、あたり前に成果主義である。毎月の自分の給料を取る為には、いくら売上げ粗利はいくら必要であるか、個々人で常に計算している。仕事における客への能動的なアクションや新規アプローチは、先々の自分の給料を確保する為に起す。プレーイング・マネージャーとしての認識があたりまえである。欧米は大手の会社であっても、社長や副社長自ら営業に出かけ仕事を受注するケースが多い。

 私も前職時、資本と経営の完全な分離を理想としていた時期もあったが、昨今、海外の「禿げたかファンド」の歓迎されざる台頭で少し気が変わった。日本企業の株主総会で、議長になる経営者が株主に対し「弊社の今期の状況は・・・」と言う「弊社」は海外では異様に聞こえるらしい。そもそも会社は株主のもので経営者のものでは無い。「お前に金を出してオレの会社の経営を任せているのに弊社とは何事だ」という事だ。

 会計監査も株主から依頼されているもので、経営者と監査法人が共謀して粉飾する日本の会社のしくみも分からないとの事。しかし、「会社の所有者は株主」から「経営者や社員達」という日本風の会社の在り方も間違っていない。もっと日本風にドロドロとした人間関係の中で、割り切らない状態の中で進めて行くやり方があってもいい。経営陣にも入っていない上司が、その立場の中で無能である事が露呈するのは、会社にとってはとても健全なことだ。

 そもそも上司が、「やりたいようにやりなさい」なんて呑気なことを言える会社は、独占的なアコギな商売をして不当に儲かっている会社であると想わずにいられない。そのように人任せである場合、小さい会社だったら倒産する。ピラミッドの組織はとかく責任回避に陥り易い。上司をプロデューサーとして位置付け、平たい組織にすれば呑気なことは言ってられない。次から次へと、部下から相談を受ける事になる。上司の能力が試される。

 部下の不信、士気の低下を招くような上司を配属してしまうこと自体、経営陣や人事の無能さに原因がある。事業部の予算設定を低くし、当該四半期に他の事業部の売上より上がってしまった場合、次の四半期に繰り越す画策をするような人がいる会社はいまだにある。これを大手にやられると、零細企業は納品が終わっているのに請求も立てられない。支払う金が無ければ、倒産の危機だ。業者の不信、士気の低下までも招く悪いヤツだ。

 日本の会社の経営にとって今最も必要なのは、「会計監査法人」ならぬ「人材監査法人」だ。社員全体からの聞き取りも必要であろうが、仕入先である業者の声も是非聞いて欲しい。顧客至上主義もしかりだが、仕入先あっての会社である。第三者が介入する事で、日本の会社経営の良さを残しながら、更にいい方向へ向うような気がする。数字は会社にとって必要なものではあるが、それを司る「人の監査」のほうが会社にとってもっと重要である。
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核の論議 

 北京オリンピックと上海万博にひた走る中国とその周辺諸国の静けさはとても不気味である。日本の大手メディアも気を使っているのか、取り上げるニュースは政治問題に発展しそうもない些細なものばかりである。日本にとって中国の二つの大イベント後の両国の関係は、果たして吉と出るか、凶と出るか?両イベントの開催期間中、中国と取引している日本の会社にとっては厄介この上ない期間になるに違いない。

 米国が北朝鮮に弱腰なのは、ドルから元へシフトすることを示唆されたことにある。北は二枚舌だ。中国は米国の圧力を緩和させる為に今後、更なる元高を敢行するであろう。中国向けの航空機やホテルの高騰は確実である。出張時には予約も儘ならないような事態に陥るのではないか。このような先行きの読めない事態を想定し、ベトナム等南アジアに生産拠点をシフトする日本のメーカーも続々と出てくるであろう。

 ビジネスにおける中国の魅力は、人件費が安く日本に近いことにある。日本における食料、衣料、生活雑貨等の物価は中国が隣国であった為、’90年代には国際価格と言われるまでに下がったと考えられる。日本が中国の市場経済導入の恩恵に授かっているのも確かだ。1957年、安倍首相の祖父岸信介が策定し、’60年に池田勇人が閣議決定した約14兆のGNPを10年間で倍にする「所得倍増計画」の経済発展期に、今の中国は重なる。

 ‘66年に私の親が購入した千葉の実家は、木造プレハブ3LDKの一戸建て、坪数は70坪で約四百万円であった。北京近郊や上海では、今やこの価格ではアパートも中国沿岸地域では買えない。30歳であった父親の給料は1.5万円位であったとのこと。今の中国の給料は年齢もあろうが、ちょうどこの時期の日本の平均的な給料に近い。日本では100円あれば菓子パンを2つ買って、牛乳一本飲めるような時期であった。

 日本と同じように所得倍増に向う可能性も十分に考えられる。中国から安く買う事は不可能になる。更に心配するのは、足の速い伝染病のように内陸部へも広がってしまう便乗値上げである。ブランドや購買層を限定した上での戦略的な価格策定ではない単なる便乗値上げである。モノの価格は最終的に需要と供給の曲線が交わる点に戻る。破綻する会社や個人が、日本のバブル崩壊期のように相次ぐのは市場経済では多くの先例もあり避けられない。

 今の中国ではこれらを防ぐ政策として、統制経済にし緩やかな経済発展をさせることはすでに不可能だ。急激に物価が高騰しその後急激に失速することはまず間違いないであろう。また、そのような不安定な時期無しで安定した経済に戻る事も無い。中国国内では今以上に様々な社会問題が起こりデモが頻発し延いては国際問題も起こる。内政問題の矛先を変える為に、日本バッシングが増えることも必至である。国家を統制する為、台湾への武力侵攻もありえる。

 今、日本の周辺は中国を中心に嵐の前の静けさを故意に保っていると考えられる。特に厄介な時期は上海万博後だ。いかにその後を日本は乗り切ることができるか、とても心配である。貿易の観点からは、この時期、中国以外の他国と貿易をするか、中国経済を静観するかしか方法がないと呑気な事を言えるが、領土問題・歴史問題・宗教等の国の体裁に関わる問題では、小泉政権時の比ではない程激しい論争が国際問題化するであろう。

 日本と同じ敗戦国ドイツは既にNATOにおいて集団的自衛権を確立している。日本に軍隊の駐留はあっても日米安保条約は、北朝鮮と米国との交渉を客観視すれば現時点では正常に機能していない。今後、核を保有している国と対等に論議や交渉するのであるならば、その前提として、日本国内での「核の論議」は避けて通る事は出来ない。上海万博を期限として、日本は国と核の在り方を明確にし米国やインド、ヨーロッパ諸国に賛同を得る必要がある。

 プルサーマル原発や技術革新が更に進めば、先の大戦のように資源を海外に依存すべくライフラインを死守するために戦争することも無くなる。更に自衛に徹することが可能な国になることは間違いない。自衛の為に、他国の領土を植民地化するのではなく、自国に参入し国家予算を振り当て国民全体が貧困に喘ぐような愚を、二度と日本は犯すことは無い。日本はこれ以上の領土も必要としていないし、これ以上の平和も求めていない。

 日本の現状を維持する為、「ネゴる」ならぬ「ゴネる」外国にはっきりと発言したいのである。民主主義や議院内閣制は、日本国内で日本人に対して機能しても、対等な武力無しで国際的に機能しないものであることは今や自明の理だ。他国に日本近海にミサイルを連射され理不尽な事を言われた場合、はっきりと自国の武力を背景に「それは違う」と言い返さなければならない時代になった。近海にミサイルをぶち込むような国々を放置するべからずだ。

 最先端の技術も戦争の抑止力になると考えられるが、「核」あって技術が生かされ、その技術が更なる抑止力として機能するはずである。国際常識として、軍隊や核の保有の前提無しに、国家間の交渉はすでに成り立たなくなっている。「核議論」をする期間は3年も無い。その議論さえも無い場合、すべてが封じ込まれる。同じ価値観を有する国々に対し日本の「核」の在り方を、史上最初で最後の被爆国として説明すべき時がついに来た。

豊洲 

 私が住んでいる生活感の無いお台場から最も近い、生活感が満ち溢れている町が豊洲だ。石川島播磨の跡地の開発は「ららぽーと」を中心にマンションの建設ラッシュが続いている。ここには以前より運河が張り巡らされ、最近ではその住人を「キャナル族」と呼ぶらしい。じゃあ、新宿二丁目の住人は「○ナル族」か。

 セブンイレブンの一号店も豊洲にある。いまだに活気があるコンビニである。2年位前までは地下鉄有楽町線「豊洲駅」を吉牛側に上ったパチンコ屋裏に銭湯もあった。新旧の住居がほどよく混在している。交通のアクセスも抜群にいい。高速の湾岸道路も近く、東京駅へのタクシー料金も千円位であろう。

 「ドゥスポーツ」もこの場所にあり今では「ららぽーと」の中に移動した。車道並みに歩道も広く、家族が安心して住めるロケーションだ。西側有明方面に通じる新都市交通「ゆりかもめ」の下を走る道も同様に歩道が広い。ジョギングやサイクリングには打って付けである。台場も近い。

 銀座4丁目交差点から、築地、晴海を抜け有明に向って架かる晴海大橋を豊洲から望む景色も抜群にいい。特にその方向に見える夕焼けは幻想的でもある。東京郊外でも滅多に無い大規模のホームセンター「ビバ・ホーム」も駅横にある。「イトーヨーカドー」「ジャスコ」も近い。

 これほど便利なロケーションであれば、住人が増えるのも当然だ。私としてはそこに住みたいというよりも、出前専門のお蕎麦屋さんでも開業したいなぁとの気持ちに駆られる。そうなれば一応勤勉な「キャナル族」である。でも、地図が読めなくなってきたので出前は難しいか。そんだったら新宿二丁目に移り住み「○ナル族」になるしかない。

モータリゼーションのあり方を考える 

 「モータリゼーション」とは、自動車が大衆に広く普及し生活必需品化されることをいう。かつての日本に比べて現在の日本は、あり得ない間違った方向にモータリゼーションが進んでいると思わずにはいられない。「居住性」「安全性」「性能」の甘い売り言葉にかまけてばかりで、本当の省エネや日本の狭い国土の身の丈にあったサイズの車の開発を御座なりにしていると考えてしまう。日本の国土は埋め立てをしても2倍・3倍と大きくなる事は無い。

 省エネを売りに発売された最高級ハイブリット・カーは、一般庶民から見てとても矛盾しており格差の象徴のような自動車であると考える。貧乏人のひがみだが、このような自動車に乗る人が燃費を気にして乗るとは思えない。偏屈な見方をすれば、偽善者とも言えよう。その高級自動車から次の自動車に乗り換えるまでの減価償却も含めたすべての経費を考えれば莫大なものになる。果たしてこれが省エネと言えるのだろうか。

 「居住性」「安全性」「性能」は、その自動車の外にいる人達を思いやる事は少ない。大型の高級車に乗る人のステイタスや事故の時には最も安全であるという自己満足がそこにあり、そこに御しるし程度の省エネがあったところで、どんな意味があるのか。国防も儘ならなく、ライフラインも自国で守る力が無い日本の自動車が、その燃料の確保も儘ならないまま、更にサイズが大きくなることに問題がある。駐車場代もバカ高い。

 歩行者の安全性確保と省エネという観点から自動車のサイズを考えた場合、最も現実的且つコスト安に出来るのは、間違いなく軽量で小さな自動車である。スピードも狭い東京内での制限速度を落とせば人身事故の際、死亡に至る確率は確実に下がる。シャーシーやフレーム以外は、通常のウレタンと低反発ウレタンの組み合わせのボディーを考え、歩行者の接触に備えたり、狭いスペース内で接触しながら空きスペース無く駐車可能な構造にするのも可能だ。

 ‘70年代の2回のオイルショック後、世界最高の省エネ技術を確立した自動車業界は、その後貿易黒字で散々悩ませられた。その解決方法として、海外の現地法人や工場を設立したまではいいが、今ではアメリカの大きなサイズに逆戻りしてしまった観は拭えない。約50年間の石油の埋蔵及び備蓄があるアメリカも日本の省エネに倣い、’80年代は小さなサイズの自動車を作ったが、今では日本以上に大型化している。

 たしかに、自動車にスタイリッシュ且つ高級感が無ければ購買意欲はそそらないであろう。車幅が広く安定した自動車がいいに決まっている。が、しかし首都東京の道路は世界で最も不便な道路と化した。自動車の流れを人間の血流に例えれば、渋滞している状況は血液中の大きい脂質がその流れの妨げになったり、コレステロールが血管内に付着して流れを狭くしたりするようなものだ。病気なのである。厳しい駐車違反の取締りでかなり流れるようになったとは聞くが・・・。

 滞ることなく流れるようにするには、自動車を小さくするか、公共の乗り物に乗るしかない。電車等のインフラが発達している東京においては運送業以外、大きい車を必要としない。自動車が更に大きくなり歩行者よりも更に大きい顔をしている。東京も東京に車庫がある営業車を選別し、強制的に小さい車種にすることが肝要だ。日本の景気を左右する自動車業界が賛同する小型車での利益確保が前提ではあるが。

 昨日の新聞によると、かのニューヨークでさえも省エネの為、街中を走るイエローキャブのほとんどを5年以内にハイブリッド化するそうだ。私もマイカーで営業する事が少なくなった。週末やオフに、乗るのが楽しい自動車は必要であると考える。ピザの配達のバイク並みに小さく、ヘルメットが要らず、都内の駐車場でも月極め五千円位の駐車代、都内各所に専用の安い駐車枠があって価格は50万円位なら都からの助成金と省エネと環境保護のお墨付きを貰った上で買いたい。偽善者だ。

ジェット・コースターの恐怖 

 脳科学者の茂木健一郎氏が某テレビ番組で、「人間はジェット・コースター等の恐怖体験で脳が活性化する」と言っていた。なんでも、普段使わない脳ミソを使うことにより、新しい脳内の回路が開拓される為であるとのこと。脳と心の謎の解明は必要な学問であるとも考えるが、行動力の欠如が原因で恐怖体験が少ない輩を敢えて増長させてどうするのか?と、机上の論理であたかも恐怖が必要なものであると提言する氏の発言に疑問が湧いた。

 そもそも、私はこのジェット・コースターが嫌いである。ガキの頃は、宅地造成地や自然の中で遊びつくし、恐怖体験をやり尽くした。数メートルある高所から滑り落ち、たまたま耕してあった畑に落ちて命拾いしたり、ブレーキが効かない自転車では、低い塀に激突し数メートル投げ出され、ゴロゴロとしている大きな岩の横を縫って土の上に偶然にもいい受身で着地しすり傷だけで済んだことなど、語り尽くせない程の恐怖体験がある。

 ま、このような私の体験を恐怖体験と位置づけてしまう事もおこがましいが、何故かこのような体験が少ない人ほど、この乗り物が好きなように感じてならない。行き過ぎると死ぬという、体験に基づく仮説が立たないせいであろう。叫ぶ事でストレスが発散できるという効果があることは、分からないでもない。しかし、私から見れば「恐怖に晒されて喜ぶマゾ」、更には「恐怖を求めて止まない変態」とも、捉える事が出来る。

 と、結果的にジェット・コースター好きの人を責め尽くしてしまった。私なんぞは、「浅草花やしき」のジェット・コースターのゆっくりとしたスピードが好きだ。ディズニーランドなら、ダンボちゃんやピーターパンの冒険?等、たとえ落ちても大した事にならない高さで動く乗り物がいい。そう、私の心の重心は常に低いところにあるのである。私が赤ん坊の頃は、「高い、高い!」をされると泣いていたらしい。

 そう、ジェット・コースターも「高い、高い」も絶対に安全であるという感覚の中での擬似恐怖体験がいいのであろう。私が「高い、高い」を嫌いになった理由は、オヤジが一度ならず二度位、不注意で私を受け止めず地上に落とした事に原因があるらしい。スピードも嫌いである。これもガキの頃、オヤジの趣味のバイクで、オヤジがかっ飛ばしてカーブを曲がる際、腕力が尽きて振り飛ばされたのが原因だ。あっ、そうそう、私はオカルト映画も大ィ嫌いである。あんなのを見ると夜、トイレに一人で行けなくなる。

 ムムッ!そう考えると、すべてが怖い私か。あらゆる事に対し好奇心を持ち過ぎ、行き過ぎやり過ぎ酩酊状態を経て、最終的に恐怖に辿り着いてしまうのかもしれない。私なんぞは、おとぎの国へ行ってキャンディーで出来たお城に住み、庭園にある泉の周りのお花を摘みながら7人の恋人達と遊ぶのが一番いいのであろう。「男が一旦お庭に出ると、七人の恋人達と遊ぶ」という格言もあったではないか。←ナイナイ!

『話を聞かない男、地図が読めない女』 

 私はこの本を読んだ事が無い。「男女の性差は、遠い昔の男と女の役割(狩猟と子育て)の違いから来るもので、脳と心理にも性差をもたらし、現代においても男女の違いやトラブルに影響する。男と女の思考構造と行動様式は昔からあまり変化がないのに、生活環境が大変化している(つまり、共働き)ので、そのひずみがとくに現代に現われている」というのがその内容らしい。

 私は昔から、地図を読んで行動したり集めたりする事がとても好きだ。土地勘もひと以上にいいと自負している。方向感覚も抜群にいいと思って生きてきた。しかし最近、なにかこの感覚が狂い出し不安な状況に陥ることがある。5年位前から、地下鉄内で他線にアクセスする長い通路や階段、エスカレーターで自分がどの方向に向っているかが分からなくなるようになった。

 間違いなく乗り換えは出来るのだが、東西南北のどちらの方向に自分が向っているのかが分からなくなる。このような状況は私にとってとても不安である。そのような状況に陥る前は、普通に歩いていても、考えることなくどの方向に向っているのが明確に分かった。車で走っていてもおおよそどの方向に向っているかは分かった。

 この感覚が鈍った自分がとても不安である。左右の利き手も遠い昔に狩猟や戦いをする時、利き手の右手で武器を持ち、左手に近い心臓を左手で防御したことで右利きの人が多いと聞いた。ギターをやっていたせいで、左指を頻繁に使うようになり、ある時から小さなものを摘んだりするような細かい作業は知らぬ間に左指でやるようになっている自分に気付いた。

 また、ある時から人の話もよく聞くようになった。と、いうことは、女っぽくなってしまったということか?そういえば最近、男同士で話しているよりも、女性達と話しているほうが何故か落ち着く気がする。最近、家内とは、夫婦というよりも女同士のお友達のような感覚が芽生えてきている。ここまできたらいっそ化粧でもして出かけてみるか。

屋形船で忘年会!? 

 前職での私の仕事はある種、事件解決の為に捜査本部を置き昼夜休み無く(そこまで過酷ではないが…)働く刑事達の仕事の様でもあった。納期まで休みの予定を入れる事はほぼ不可能なのである。そのような会社の忘年会の時期は、クリスマスや年末キャンペーン等の仕事が立て込み最も忙しい時期である。年明け早々のキャンペーンの駆け込みオリエンやクレーム処理等、日々解決しなければならない問題は山積していた。

 そんな時期に、忘年会開催日時の通達がホロリとある。忘年会と聞いて嬉しいと思った事は一度も無かった。元来、キャパが少ない私は常に仕事の事しか考えていない。特にこの時期は仕事以外何を聞いても上の空、宇宙の最果てに気持ちがある。年末のある日、やけに客も部下も早めに仕事が終わり、たまにはと飲みに誘ってみたところ「クリスマス・イブなので約束があるとの事」。「そうか、今日はイブなのか」と、そこで初めて気付く私なのであった。

 そのような時期に忘年会、それも屋形船で。「それもいいねえ」と上の空でその時は聞いているが、直前に「社長は何をいったい考えているんだろう」と最悪のロケーションに憤りを感じることが頻繁にあった。「そっちのお座敷じゃなく客からのお座敷(クレーム等)がかかったらいったいどうするんだ!!」という憤りである。遅れた場合は、船着場で待てということか、だ。参加したい気持ちも少しはある。でも、出航時間に間に合わなければ年忘れも叶わなくなるのである。

 例年、陸上で開催される忘年会であると、私の部署がほとんであるが、私も含め遅れる奴がたくさんいる。仕事で遅れる部下達が忘年会に参加できないのは可哀想だ。陸上の忘年会と違い出航時間に1分でも遅れたら最後、船をチャーターして追いかけるしか方法がないのである。私の名言?「会社は控え室だ。ステージは客先にある」が、虚しく響く。その日だけは「ステージは会社がチャーターした屋形船にある」ことになる。

 ヤキモキした気持ちで忘年会当日をむかえた。果たして部下達は出航時間に間に合うのだろうか?午後6時、ゲストのお取引先の方々も船着場に集合している。心配するまでも無くなんと全員揃っていたのであった。一時はどうなるかと思っていたが、存外けじめが付くものなのだなあと感心した。社長の企画には感服の至りであった。敵も多いが既成概念を常に打ち破る柔軟な頭の社長である。性格も違い反面教師的存在であったが、この人をみて仕事を覚えたことは確かである。離れた今、最もこの社長に仕事のやり方が似てきていると思わずにはいられない。

老化かな? 

 「老眼」 なんて酷いネーミングだ。この最悪なネーミングと比較すると、「加齢臭」という嫌味な名称の方が近年出来ただけあり当事者に対する制作者(資生堂らしい)の気遣いを感じる。人間の目は、「毛様体」という部分の筋肉が収縮し、水晶体を膨らませることでピント合わせ(調節)を行っている。若い頃は、遠くも近くもピントを合わせる力(調節力)が十分にあるが、年齢とともに水晶体の弾力性が低下することで、この力が弱まっていく。この様に水晶体が硬化して膨らまない為に起こる現象が「老眼」だ。
 
 私はド近眼である。近眼の人は老眼になりにくいと言われているにも関わらず「加齢眼」は人並み以上に早くにやって来た。42歳の時、ある日突然本の字が見えなくなり、読書する事に疲れを感じるようになった。いつも見慣れた地図がやけに霞んで見えたり、商品の検品では、細かいロゴの良し悪しの判断が付かなくなってきたりした。眼鏡を外して対象物を目の近くに持ってきたり、読書の際は鼻めがねにしてピントを合わせたりすることで、その場をしのぐ状態が続いている。
 
 老眼鏡を買ったほうがいいと家内からは言われるが、ケント・デリカットのように傍目に見て自分の目がデカク見えるのも恥ずかしい。親戚からは遠近両用ではなく近々両用がいいとも薦められた。近視用眼鏡の度を落とすことで、近くの文字は見え易くなるとの事だ。「エエッ!この年で!」というのが実直な感想である。年配の客も打ち合わせ時、遠視用眼鏡をかける人も多い。目がデカクなった私を想像すると、ボウフラか蚊トンボみたいでカッコ悪りいなぁと思わずにはいられない。
 
 老眼以外にも近年気になっていたことの原因も分かった。右の薬指と小指がギターを弾く時やパソコンのキーボードを打つ際、内側に巻く状態が続いていた。今まで弾けたアルペジオ系の曲がある日弾けなくなった。パソコンも豚打ち(3本の指で)していると家内になじられてきた。友人のピアニスト曰く「原因は腱鞘炎である」との事だ。4年前、自転車に乗るようになり腕や指にかかる普段使わない力がかかり炎症を起した事に起因しているのかもしれない。
 
 ま、脳の萎縮等が原因で指が動かなくなった訳ではない事を知っただけ、前向きに生きる事ができる。無理してギターを練習してはいけないらしい。柔らかい弦で弾かなければならないとのアドバイスを受け銀座のヤマハと山野楽器に行ってみたが、思ったような弦は売っていなかった。チューニングのテンションを下げて練習するしかないか。左手は全く問題が無く、以前のように華麗にフィンガリング可能であるが、右手薬指と小指は華麗ならぬ加齢か。「ギター小僧の私はあきらめないぞ!!」。

本日のレインボーブリッジ 

撮影時間 19:10



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本日のレインボーブリッジ 

撮影時間 13:00
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