スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

喪失ならぬ紛失 

 この中途半端な天気、誰かどうにかしてくんないかなぁ?ヤホーの天気予報、その数時間先の雨雲の動きを見れば東京上空は常に雨雲で完全に閉ざされている。雨雲であることを示す薄緑が天気地図全面に広がり、地面が見えることが全くない。心まで曇っちゃうなあ~。事務所じゃあ、細かい仕事のオンパレード。電話も携帯電話も鳴り続ける。外出することも儘ならない。それを知ってか知らずか、大らか且つ紳士なお客様はバイク便をバシバシ手配してくれ、そうじゃないお客はオマエが営業に来ないのが悪いと言わんばかり、仕方無しにこちらで自腹の手配になる。

 あっ、そうそう、先日、大切なものを紛失した。回数券とパスモが入ったビニールケースだ。ゆりかもめと都営地下鉄、営団地下鉄の回数券がたくさんと約二千円が残としてチャージされていたパスモ。パスモには名前を入れていた。もし、公共交通機関の事務所へ落し物として届けられていた場合には電話番号も入力されているので自宅へ電話があると聞いた。が、電話は全くない。勝手にオレのパスモを使ってんじゃネエヨ!と、私と同年ぐらいの脂ぎったオヤジの顔を頭の中でモンタージュし、怒りが込み上げてくる日々は続くよどこまでも。

 それと硬い台紙に貼られたカラーチップPANTONE186Cと485Cもそのビニールケースに入っている。この485Cはいわゆる赤だが、明るい赤系の番号からはかなり離れた場所にある。今年だけでも三回使った。それもすべて違うクライアントだ。使用頻度が高いページではないので、デザイナーも不況のあおりを受け節約している可能性もある。たかだかカラーチップと思う無かれ。2冊で約5万円もする。そして使う色はごく一部分。特に赤系の185Cのあるページと青系の286Cのチップがすぐなくなる。仕方なく伊東屋へ行き、そのページだけでなんと1,100円も払って補充する。ヤクザの上を行く暴利だ。

 1ページなんと1,100円。13×20cmの印刷された単なる紙ペラが。ページを補充するごと、消費者センターへ電話をしてやろうか?といつも考える。割安な国産のカラーチップのDICやTOYOにもっと頑張ってもらわなければならない。と、落としモノの怒りがカラーチップの怒りへ変わってしまった。「喪失」ではない単なる「落し物」。精神的な何かを失ったわけではない。そうか!童貞も処女も精神的な何かをなくすから喪失なんだ。私の場合、喪失した時、逆に精神的な飛躍があった。じゃあ二択で童貞紛失か。私のような女性もいる可能性がある。じゃあ処女紛失かな?安っぽい~。庄司薫が『赤頭巾ちゃん~』の前に本名で書いた小説に『喪失』がある。中高時代だったので彼の著作の中、この小説だけは難し過ぎてダメだった。ただ難解な小説であったとしか覚えておらず、内容は記憶喪失した。何が何だか分かんなくなったので今日はこの辺で。
スポンサーサイト

天突き抜けて懲りない秋 

 少しだけ先取りして「天高く馬肥ゆる秋」。10月1日には新聞各紙の紙面に踊る言葉だ。しかしこの故事は中国の本来の意味とは全く違う。紙面で無理矢理踊らされている。誰もが、秋空はどこまでも高く、その下で馬がのんびりと草を食む長閑な様子を収穫の喜びに重ねる。ところがどっこい、中国故事の本意は日本のそれとは全く正反対、農民に匈奴の略奪からの注意を喚起したものである。漢の時代、極寒の中国北方を流浪する騎馬民族である匈奴は、夏のうちに馬にたらふく草を食べさせ、その肥えた馬で南下し漢の領土に侵入し収穫物を略奪した。ゆえに「秋は注意せよ」が本来の意味だ。

 同じく秋に聞き、かつては躍らせられたが今では踊ることのない言葉に「読書の秋」がある。この言葉は秋になると本の売上が伸び悩む出版社が仕組んだと聞く。出版社の販売促進用キャッチ・フレーズなのである。これは聞き飽きた。書籍のプロたちがこれ以上のキャッチ・フレーズを作れないとは是如何に?「秋深し独書のためにはまず読書」とか「お宅で出来る汗牛充棟、書店じゃ困る汗牛充棟」。ま、せいぜい私が考えられるのはこのレベルだが・・・・・・。雑誌なんぞは景品を付けるより、装丁をハート型にしたり、3Dフィルムでアイドル写真を浮き上がらせたりしたほうが確実に売れるのではないだろうか?

 農耕民族としての遺伝子を引き継ぐ私として最も耳に優しいのは「収穫の秋」という言葉だ。実際の仕事では日々種まき、何とか刈り取りの年間何百毛作であるが、「種を蒔かねば収穫は無い」と、自分自身へ正しい行動指針を諭すことが出来る。「Autumn」という英語も「収穫期」というラテン語が原義らしい。米語の「Fall」は、「夜や闇が落ちるようにやってくる」と、とてもリアルな意味で、収穫のように喜びを伴うものではない。無常観が溢れ切なさが漂う。10月1日は「今年も残すところ3ヶ月だ」と、気合が入る日ではあるが、喉元過ぎれば、年度末の3月まであと3ヶ月だと自分に都合よく先延ばしする。「天突き抜けて懲りない秋」か。

ベランダ掃除と謎の植物 

 先月末、台風14号の影響で東京の天候は朝から荒れまくっていた。台風が夕刻には東京に接近すると聞き、午後6時、五反田の客との打ち合わせが終わった段階で、直帰することとした。自分の身の危険を案じることなど決してない私なのだが、台風が直撃しそうであると客の会社全体に早く帰る指示が出たことを聞いたのがその理由だ。途端、閃(ひらめ)いた。「ベランダ掃除日和」だと。花粉と中国から飛来する黄砂が異常に多かった一昨年以来の掃除である。

 スーパットでスモーキン‘ブギな私の、私という蛍が住む我が家で唯一の喫煙ルームであるベランダが、それらで汚れまくっていた。仕方なくその年、ホームセンターのコー○ン(マルの中は「ナ」が正解、「マ」だと不正解)で、持ち手が樹脂製のデッキブラシと10mのホースリールを購入し雨降りを待った。ベランダの室外機の上に神棚を作り、その横の灰皿のタバコを焚き、心の中では家内を生け贄として捧げ、雨乞いの踊りを続けた。するとその日の昼には雨が降り出した。

 ベランダから階下を望めば洗濯物や布団はすでに取り込まれている。その確認の後、おもむろにホースを持ち、風呂場の蛇口に取り付けた。そしてスルスルとホースを伸ばしながらリビングを通り抜けベランダに出した。風呂とベランダ間に当家初の水道が遂に開通した。新橋~横浜間に汽車が開通した1872年以来の快挙だ。あまりの嬉しさに心の中でテープカットの儀式を厳かに執り行い、ついでに音が似ているという理由だけでパイプ・カットも行った。ペットじゃネエヨ!

 と、前の話が脚色され長くなり過ぎてしまったが、ブーフーウー三匹の子豚じゃねえや、暴風雨がベランダや窓に叩き付けるくらいの強い雨降りの日が絶好のベランダ掃除日和なのである。階下の洗濯物を気にすることなくガンガンとホースの水を勢い良く飛ばし、ガリガリとデッキブラシでベランダを掃除しまくる。階下に飛び散る汚水も気にならない。ホースの水や飛び散る汚水の量とは比較にならない程、横殴りで大量の雨が降っているのだから・・・・・・。

 ベランダ掃除もオーラス(all last or order last, which?)に突入し、エアコンの室外機の下を見ると、小さな葉っぱが4~5枚で茎の長さが4㎝位の雑草らしき植物が生えていた。引っこ抜いてみると、水気の多い室外機下に溜まった黄砂や砂埃の薄い層の中に20cmほどの長い根を張っていた。その長い根を見て「なんと強い生命力!」と感動した。これはゴミにしちゃあ可哀想だと考え、空いている鉢に植え替えた。その時刻、午後8時頃には雨風が当然止んだ。

 その後、ネットの植物図鑑などでこの雑草の名前を調べたが全く見当がつかない。最近、ご近所の湾岸警察に越してきた話題のノリピーをふと思い出し、その犯罪に近いビッグ・リネンじゃあ大変だと思い、これまたネットで調べるとそれでもない。本名が分からないのなら、とりあえず源氏名でも付けておこうと考え、「○サオちゃん」と命名した。彼は半月ですでに30cmもの大きさになり、3mmくらいの小さな花を咲かせている。タバコをベランダで吸うたびに水をあげている。すると葉っぱがピィーンと上に張り上げとっても元気になる。お水が大好きな、とってもおミズな○サオちゃんだ。港が近いので、外来種なのかもしれない。

変態AVバス 

 雨が降ったり止んだり、そんな朝、自転車出勤を諦めバス出勤に変更した。バスで最寄の駅へ行き、地下鉄に乗り換える。台場からのバスは2方向へ向かう。浜松町行きか門前仲町行きのどちらかだ。時間に余裕があったので、じっくり30分から40分は新聞が読める門仲行きにした。自転車の通勤路とほぼ同じバス路線。自転車は、ダラダラと漕いでいてもこのバスを楽勝で追い越す。途中のバス停で、私よりシニアーなオヤジが加齢臭を振りまきながら私の前の席に座った。数分後、前から聞こえるパチンパチンという不気味な音。

 「爪をバスの中で切ってんじゃネエヨ!このクソオヤジ」であった。オヤジはバス後方二人座りの左側。私は最後部のスペイシャスなベンチシートの真ん中。その右側には二人の幼児を連れたお母さん。喉下までこの言葉が出掛かっていたが、子供に聞こえるとマズイと考え堪えた。その後、左右の爪を切り終わったオヤジは辺りをキョロキョロと確認し始めた。その行動を見た私は彼の欲している次の行動が分かった。シーアーのメーツーを切ろうとしているに違いない。今にも靴を脱ぎ靴下を脱ぎそうな空気を漂わせるオヤジ。

 「それをやっちゃ~お終いよ!」 瞬間的に怒れない私は怒りを準備した。言葉も準備した。「おい!爪は家で切れよ!ここはオメエの家じゃねえ!」と。言葉を噛むと笑いになってしまうと考え数回復唱もした。子供たちは席を乗り出し、オヤジの次の行動に興味津々だ。するとオヤジは爪切りをポケットに入れ、何事も無かったように前を見た。私を含めオヤジの周りの乗客は皆安堵の溜息。そのため息の後、静寂が訪れたのも束の間、「ハアハア」と荒い息遣いが徐々に聞こえてきた。耳を澄ますと間違いなくAV系の男優のアノ時の喘ぎ声である。誰かがMP3で朝から精力的にアレを聞いているのであろうと考えた。

 果てしなく続く喘ぎ声。女の声ならまだしも男の喘ぎ声など早朝から聞きたくも無い。そうこうして、声の出所を探しているうちにようやく原因が分かった。なんとバスの運転手の荒い息遣いがマイクを通し聞こえていたのだった。バックミラーを通し見える運転手はマスクをしている。アナウンスも鼻づまりの声。状況を把握したことで「変態AVバス」が普通の「都バス」になった。と、たまには通勤手段を変えてみるのも、ハラハラドキドキして刺激的であるなあと思う私なのであった。が、バスの運転手は許せたとしても、あの爪切りオヤジだけは許し難い。あの席にだけは座るまいと心に誓った。

記憶の栞 

 「記憶の栞」 なんと美しい言葉なのであろう。響きもいい。「記憶のアルバム」のような番組タイトルではない。実際に使用する栞のことだ。ところがどっこい、コイツは私にとってとんでもなく使い物にならない栞であった。栞とは、読みかけの書物の間に挟んで目印とする短冊形の紙や紐のことである。書物によっては紐が付いていたり、購入の際に宣伝も兼ね短冊状の栞を挟みこんでくれる場合もある。外出時にこれらが無い場合、誰もがきっと身近にある栞代わりになるものを探し出し、その場をしのぐ。ページを折るのが最も簡単な方法であるが、それが出来ない場合もあるからだ。

 まずはポケットを探る。ガムの包み紙があればまずそれを使う。外紙がいい。とってもいい栞になる。中紙である銀紙を使った場合、噛み終わったガムの処理に困ってしまう。電車が目的駅に到着する前にポケットを探ると切符や回数券が出てくる時がある。栞にするにはもってこいの硬さやサイズではあるが、それを書物に挟み込んだまま駅の改札を出る事は儘ならぬ。そんじゃあ、しょうがない、回数券を入れる袋やポケットカレンダー、レシートや千円札までが栞代わりとして登場するハメになる。

 このハチャメチャで統一感の無さがなんとも嫌だ。書店のレジ前に栞が束で置いてある時などは、ごそっと掴んで持ち帰るのであるが、それらはみな自宅のベッドの上。じゃあ、どうやって統一感を出そうかと無い脳ミソをフル回転させたつもりが空回転し、思い付いたのが「記憶の栞」だ。読み終わったページの数字を単に記憶すればいいんだ!と。これで今日から栞で悩まなくて済むとその時は本気で思った。が、これが全く使い物にならないことに気付くまでたいした時間はかからなかった。

 私の本のどこを探しても「記憶の栞」は無かったのだ。「いったいオマエにはこの栞が見えないのか?」と、自分に問うてみた。「裸の王様」のようだがちょっと違う。本の中を探しても無駄。自分の記憶の中にしか無いのだから。記憶を最も苦手としている私の頭では、せいぜい記憶が続くのが3秒。そして三歩歩けば栞なんぞは消え去っているのだ。大発明だと大喜びしたのも束の間、自分の頭の悪さをトコトン思い知らされた。記憶力のいい人はきっと重宝しているに違いない――――とっても便利だが私には見えない「記憶の栞」。

第45回衆院選 歴史の曲がり角 

 小泉元首相が吐いたかつての言葉通り、今回の選挙での自民党の歴史的大敗で「自民党はぶっ壊された」。この自虐的なフレーズは、「官僚主義をぶっ壊す」ことを目的とした手段であったはずだ。小泉元首相は、郵政民営化における競争原理を説きながらも、その原理に相反する世襲を断行し、無責任にもさっさと立ち去った。小泉元首相個人をこれらの経緯から考えれば、「権力闘争」に打ち勝つのが本当の目的で、郵政民営化の旗印のもと小泉チルドレンを擁立して単に族議員を排除したに過ぎないのが彼と「小泉改革」の正体であったと言えるのではないか。その後、それを推進するか見直すかの結論さえも出せない機能不全に陥る自民党。麻生首相などは小泉氏に脅される始末。本丸の「官僚改革」へは踏み込むことなく、表面的なことでお茶を濁すことに終始した。

 今回の選挙を振り返れば、投票する国民として一票を投じようと考える対象である主人公は不在、政党の勝敗も意識せず、単に「政権交代」のみが投票の目的になった。民主党の対戦相手であった自民党は、失速しそうな状況を権力志向の小泉氏が担い、「郵政民営化」を大義に、政治の本質には関係のない小泉チルドレン等の人気・熱狂とその任期だけ、皮一枚でなんとか維持していた政党であったことを国民が再確認した選挙になった。今回、「政権交代」への熱狂が国民を投票所へ向かわせ、その副産物として民主の圧勝になった。ただそれだけである。二大政党制の意義ある出発のゼロ地点であってほしい。政治でも選挙でも全く使い物にならなかった小泉チルドレン。それらを研究し尽くし擁立された小沢ガールズ。次の衆院選こそ、花も実もある本当の「二大政党による白熱する大選挙」になってほしい。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。