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東大教授・加藤陽子を援護する 

 以前、このブログで加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読み、とても分かり易く興味深い本であると書いた。日本の近代史が専門である東京大学の教授である彼女が、中高生への講義の機会を得て、その講義の質疑応答をまとめ一冊の本にまとめた画期的な内容のものだ。明治憲法の天皇大権における「統帥権」については、憲法発布以降、激変する世界の時局に鑑み、日本国はそれらに対応すべく、いつからどのように解釈がなされたのかを、今まで私が読んだ歴史解説書の中では唯一丁寧、しかも分かり易く書いてあった。

 その後書店で『月刊 正論』を買う際、隣に積まれた『月刊 Will1月号』を立ち読んだ。すると「加藤陽子・批判」が特集として組まれていた。その中では、歴史評論家や歴史を専門とする教授陣、大の男4人が揃いに揃って彼女は勉強不足だの、この本は読んでいない等の批判を繰り広げていた。一人ずつ、その本の一部分を拾ってはピンポイントで批判、自分の知識を披露するといった感じで、論点が全く定まっていない。1月号に続き翌月号へ続くとされていた。きっと批判し足りないのであろう。大の男4人 VS か弱き女性1人。

 なんとも女々しい限りの男達。ここで彼女の抗弁を聞けるわけでもない。このような多勢による力任せ、一方的な状況を世間では一体何と言うか?そう、「弱いものイジメ」と言う。私が歴史に興味を持ったのは、単に受験の為に記憶するという学問ではなく、その当時の状況やその当時の人の気持ちを思いやることが出来る唯一の学問であることをある日知ったからだ。歴史観は勝者のものになりがちであるが、負けた方の正義もあったのではないかと思いやる。自分の命を賭して戦う義とは一体何かと、自分なりに考えたりする。

 守るべきものや弱者に対する思いやりが、一体歴史にどのように作用してきたのか?と考えてみる。「歴史は虹だ」とは、渡部昇一先生の本にあった。「思いやり」を前提に、見る人や場所によって解釈は様々なのである。それが歴史だ。そもそも、多勢をもって一人の解釈を一方的に批判するような、歴史家の基本、人としての基本である「思いやり」を持たないニセ歴史家に、人を批判する資格などあるはずもない。「男4人も揃いに揃って寝ぼけやがって!顔を洗って出直してこい!」と言いたい。

 男なら男らしく一人で論戦が張れるような勇気がコイツ等誰か一人にでもあればとも思う。翌月号にも続くらしいが、一度では言い足らず男共が雁首揃えまた女一人を批判するつもりなのか?出版社に躍らせられていることや、愚かな自分のイジメに気付くデリカシーがなければ、オメエ等には人に歴史を説く資格は無い。このイジメを続ける限り人間失格であるとも言っておこう。彼女と東大の権威を勝手に重ね、それに恐れ情けなくも多勢になったのか?様々な解釈はあっていい。しかし、個人に対する批判は堂々と個人でやるべきである。
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