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露寇事件 

両親共に要介護1を取得することが出来た。その申請書や契約書、その他の書類も2人分月曜日に書き、昨日の朝、ケアマネージャーへ渡した。総務省の「経済センサス」も事業の詳細を記入し今日午前中約束の時間に渡すことが出来た。介護の書類はただ書き込むだけの作業であったが、とても面倒で腱鞘炎の手で書く文字は乱れに乱れた。ついでにネットバンキングの電子証明書の更新も先程、電話で説明を受けながらであったが無事済ませることが出来た。

昨年までネットバンキングの電子証明書の更新は一人ネット上で行っていたが、私はパソコン音痴、一時間以上も作業に要した。今日、直接電話し説明を受けながらネット上で更新できる事を知りさっそく電話。なんと5分で終了。他人が作ったものやルール、理論や理屈はどうにも自分の頭に入らない、というか頭が受け付けない。私の脳味噌はある部分硬くある部分はとても柔らかい。両親の介護が私の頭に貼りつき、柔らかい部分も更に硬直化してきている。

昨日は風邪をひき午後8時に帰宅。鼻水をかみながらNHKの『さかのぼり日本史』の録画を立て続けに見た。アメリカのペリーより先、ロシアのラックスマンが根室に1792年に通商を求め来日、その返事を聞くため12年後の1804年に幕府との約束の場所であった長崎にレザノフが来日。幕府はレザノフを半年待たせた挙句、鎖国政策のため通商は不可能という方便で追い返した。三代将軍家光の時代に鎖国はなく、方便として「鎖国」の文言がこの時に初めて使われた。

近年、鎖国は三代将軍家光が下したものではなく、制度としての「鎖国」は無かったとする見方が主流であるとのこと。これについて知っている人は多いと思うが、その先に驚いた。レザノフを追い返した2年後の1806年にレザノフは部下に命じて樺太を襲撃、翌年には択捉襲撃と「露寇事件」を起こした。間宮林蔵は1808年に樺太とその対岸を幕府の命により探査させられた。一連の襲撃事件を総称し「露寇事件」というのは初めて聞いた。教科書では太文字にすべきだ。

私が日本史を学んでいたころ間宮林蔵は単なる探検家であった。探検する理由を教わった記憶が全く無い。露寇事件を経て間宮林蔵の探検が日本の安全保障に結びつくものであるとも考えなかったし、伊能忠敬の地図も然り。当時の教員ががロシアをかばい悪者にしたくないという強い意思が働いている可能性が大きい。イデオロギーを持った大人が、本人にとり都合の悪い所は飛ばして生徒に教えるので、歴史の裏筋、否、本筋が見えなかったのであろう。

そのようなイデオロギーにまみれた子供時代を振り返ると、あれもか!これもか!ということを思い起こす。30歳代も後半になり気付いたことは小学校の卒業制作の壁絵。私の一年上の学年が小学校の体育館に残した。体育館の大きな壁面に数十枚のベニヤ板を貼り壮大なスケールで描かれていた。『保元の乱』の合戦絵図が。これは藤原氏兄弟の権力闘争が天皇家(崇徳上皇VS後白河天皇)の内紛に姿を代えたもの。何も知らない卒業する小学生の卒業制作にするとは…。なぜ日本をそこまで貶めるのであろうか?


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